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カルムイキア
(ニキタの一生)
 
二十八

カラバクとレナは馬のドンを曳いてコーカサスの急な山道を登った。
後ろには今まで彼らが通って来た景色が美しい箱庭のように見えた。さらに進むと坂は岩石が多くなり、 坂の角度も更に鋭くなってきた。
最後には岩場をよじ登る態となり、前方には切り立った山々が幾重にも並び立ち、 冷たい白雲が山肌を撫でていた。
カラバクはドンを叱咤した。ドンは頑張って3歩、4歩と登るが、 そのまま摺り落ちて来る。彼は何度もドンを引き上げようと試みた。が、結局無理だった。
カラバクには今や愛馬を置いて行くか、愛馬と共に坂を北に下るかの二者択一に迫られた。
カラバクが思案しているところに、レナが「あなた、一旦ドンとこの坂を下って、別の道を探しましょう」と 言い出した。このとき彼ははっとした。そして、一瞬でも愛するドンを置き去りにする気持ちになったことを 恥じた。
下り道は陽が暮れていた。カラバクはレナに男装させた。金髪は襤褸切れで隠した。 だぶだぶの男装は、カラバクにレナの「女」をよけい意識させた。
レナを思いきり抱きしめた。むさ苦しい襤褸の皮を剥くと白桃の中身が出てきた。 カラバクの胸の高鳴りは抑えようがなかった。レナはなされるままに目を閉じていた。 いよいよのとき馬がいなないた。
カラバクはドンが妬いているのかと思ったが、そうではなかった。 ドンの声はひどく怯えていた。まもなく闇の中から低い唸り声が聞こえてきた。
カラバクはレナから離れ、10メートルほどの距離に大熊を見た。 背丈が優に2メートルを超える巨大な熊だった。銃は手元にない。
だからと言って、ここで逃げ出してはまずい。 肉食獣は逃げるものを追う本能を持っている。 しかし馬のドンにはそういう理屈は通らない。
恐怖の悲鳴をあげ、潅木に結びつけた手綱を引きちぎろうとさえしている。 これを見た熊は興奮し、攻撃本能を剥き出しにした。
熊はドンに狙いを定めた。カラバクはドンを救わねばならない。
危険を承知で熊のいる方に向かって走り、ドンの鞍から銃を抜き取り、熊を撃った。
大熊は一瞬ひるんだが、彼はすでに極度の興奮状態に入っており、 倒れる気配も、逃げる気配もない。その攻撃の矛先は発砲したカラバクに向けられた。
なぜ倒れない? カラバクは背丈が2メートル以上の巨熊を目の前で撃った。外れる筈はない。
熊の硬い皮が弾丸をはじいたのか、それとも弾丸が分厚い皮下脂肪に食い止められたのか。 とにかく大熊はカラバクに向かって猛進してきた。
カラバクは待った。熊は牙を剥いて襲いかかってくる。 ぞっとするほど大きな口が、涎を吹きながら上下に開いた。 その瞬間、カラバクはそこに必殺の一発をぶち込んだ。 大熊は、古い建物が倒壊するように不快な咆哮とともに前方に崩れ落ちた。
発射された弾丸は熊の延髄を破壊した。熊はもう動かない。 しかし、レナはまだ恐怖に戦慄いている。
カラバクはレナを抱きかかえ「もっと早く気がつけば追い払うことも出来たのに。 君に熱中してしまって、熊には済まないことをしたな」と笑う。
「ええ、そうね」レナも涙を流しながら笑った。
カラバクはレナに「ドンのご機嫌をとるよう」言っておいて、その間にそっと熊の両掌を切り落し、 布袋にしまい込んだ。
熊は蜂蜜が好きで、しばしば蜂の巣をその掌で壊し、掌で蜜を舐める。 熊の掌には蜂蜜の甘さと栄養が染みついており、「熊の掌のスープ」はロシアでは皇帝料理の メニューに登るほどのご馳走だ。カラバクはレナに気付かれないよう最高のご馳走を作ってやろうと思った。 ドンはレナの優しい言葉と愛撫でようやく機嫌を直してくれた。
「さあ、みんなで元気に山を降りよう」カラバクが号令した。 レナは服や髪の乱れを整え、むさ苦しい男装に戻った。 カラバクは小銃をドンの鞍に置き、拳銃をレナに持たせた。 山道を下ると、昼間には気がつかなかった小さな部落に行きあたった。 灯火の数から3〜4軒の農家があるように見えた。
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二十九

カラバクはレナとドンを道の脇に残し、農家のひとつに入っていった。
赤ら顔の人のよさそうな初老の男が出てきた。名をピリコと言った。
カラバクは「馬を曳いて山脈を越えるにはどこがよいのか」と尋ねた。
ピリコは何も知らずにコーカサスの山越えをしようという若者に呆れたが、 カラバクが気に入ったのか色々と親切に教えてくれた。
「北に10キロほど下れば、サルマノボという町さ出るべ。そこから、100キロほど西さ行ぐべ。 そこにチェルケスクという大きな町があんだ。そっから南さ登るだなえ。
細い道だけんど、ここらの道とは違って、よず登る場所はほとんどねえべさな、 馬さ曳いて行くことは出来るだし。ところで、あんだ食べ物や着物は十分あんのかなえ。 まんず3〜4日の準備は必要だし」という。
「精々一日分しかない。済まないが食べ物を少し分けてくれないか。 ここから4キロ南に登ったところで熊を仕留めた。あまり大きかったので運ぶことが出来なかった。 その熊と交換ということでどうだろう」
「あんだ、熊さ仕留めた言うなんど。証明でけるかなえ」
カラバクはドンの背にくくりつけた布袋を取り外すために、レナのもとに戻った。 ピリコも外に出てきた。
「あれ、お供もいなさったかなえ。一緒に、はあ家においでなえ」
結局、カラバクは布袋を持ち、レナを連れて農家に入った。
「これが証拠だ」と布袋から熊の掌を取り出し、熊の倒れている場所を詳しく説明した。 ピリコは了解し、二人の息子を呼び「狼や烏に食い散らかされねえうちに、急いで取って来」と指示した。 熊皮と熊肉は貴重品だった。
カラバクとレナに泊まって行けと言ってくれたが「先を急ぐので」と辞退した。
いかにむさ苦しい男装をしても近くから見ればレナが女であることは隠しようがなかった。 ピリコは女房を呼び、風呂を用意させたり、下着の替えを持たせたりした。
その間に、ピリコ自身は貧しい備蓄の中からパン、玉葱、塩、干し葡萄、干し肉にチーズなどを用意し、 ドンの餌も与えてくれた。
熊肉そのものの値打ちもさることながら、巨大熊を仕留めたカラバクはピリコの心の中では 既に伝説の大英雄になっていた。
カラバクはレナにご馳走するつもりだった熊の掌をピリコに「いま何もない。 せめてこれだけでも受けとってくれ」と手渡した。
ランプの光りの下で4人で軽い食事をした。ジャガイモ入りの暖かいスープが若い二人には嬉しかった。 体の芯まで暖まった。
教えられた通りカラバクとレナはまず、もと来た山道を北に下ることにした。 月明かりの下でピリコ夫婦はいつまでも手を振ってくれた。
教えられた通り進み、サルマノボを越えたところで野宿を決めた。
レナはいつものようにカラバクの寝袋にもぐり込んだ。

ニキタは山賊のもとで足枷の生活を既に5日間続けていた。
隙があれば逃げようと思うのだが、重い足枷は少し歩いただけで容赦なく足に食い込み 赤痣や裂傷をつくる。数歩が1日の限度だった。それでも動けることは幸せだった。 ここでの生活のパターンは最初と同じだが、しだいにタラムゼとオニキゼの帰りを待ち侘びるようになった。 夫のグダイが孤独な狼なら、彼らは無邪気な鼬(いたち)だと思えた。 悪意もなく強引に割り入ってくる。心は嫌悪するが、体はしだいに馴染んでしまった。
それに彼らが持ち帰ってくる獲物には小麦粉もあり、何年かぶりに美味しいパンを焼くことも出来た。 おかしな話しだが、ニキタは山賊のお蔭で体力も回復することが出来た。
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三十

彼らはニキタに食い物を与えながら、彼女の出身などを根ほり葉ほり聞いた。
「ほうお前はグルジアが1/4とカルムイキア3/4の混血か。ロシア文字は読めるんか」 ニキタはロシア語をしっかり読み書きすることが出来た。
ニキタは考えた。「こいつらから猟銃を奪って、この足枷を外させる。今度は足枷を奴らに履かせる。 もし抵抗したら一人ぐらいは撃ち殺してやる。兄のタラムゼにしようか、弟のオニキゼにしようか」 思うだけで体はぞくぞくした。
だが、彼らは天性の山賊なのか、まったく隙を見せない。それに彼女自身、彼らの動きのなかに 隙らしきものをときどき見つけはするが、「白昼夢」のような太刀回りを実際にやる 勇気はなかなか出て来なかった。

朝が来た。彼らはニキタの足枷を外し「一緒に来い」という。重たい足枷が取れたのは嬉しかったが、 逆にこの先どうなるのかという不安がニキタの心に重くのしかかった。 しかし「来い」と言われた以上、とにかく行くしかなかった。
川辺に着くと弟のオニキゼが「体をきれいに洗え」と黴(カビ)の生えた石鹸を投げ出してくれた。 「それが済んだらこれを着ろ」

水は身を切るほど冷たかったが、思い切って裸体を水に沈めた。
髪が痒かったので、黴のついた石鹸で髪を満遍なく洗った。 体も隅から隅まで洗い清め、忌まわしい恥垢もきれいに洗い落とした。 山賊どもは退屈そうに煙草を燻らしていたが、彼らの目はニキタの体を追っていた。

兄のタラムゼは最後の1センチまで煙草を吸い終わると「さあ、行くぞ」と腰を上げた。 それから歩かされた。手枷も足枷もなかったが、彼らの猟銃はいつでも撃てる状態になっていた。 コーカサスの山脈が右に見えたから、東に進んでいることだけは分かった。 目的地のバトミから見れば逆方向だった。

カラバクたちは西に、ニキタは東に進んでいたから、運が良ければ出会うことは出来たかもしれない。 ただ、双方とも人目につく主要道を避けたため、特にカラバクたちは道なき道を夜行したため、 幸運は望むべくもなかった。
山賊とニキタはどんどん東に進み、途中でニキタが焼いたパンを食べた。 タラムゼが「事がうまく運べばいいが。駄目だったら、これでパンは食えなくなるかもしれない。 今のうちに好きなだけ食べるがいい」という。
ニキタはその言葉が身につまされて、食べながらぼろぼろと涙をこぼした。
今のうちに「逃げたい」という思いが急に沸き立ったが、 自分を下から睨みつける猟銃と大鉈を見たら、「逃げることはとても敵わない」と諦めた。
このあと更に夕方まで歩かされ、小さな部落に行き着いた。 山賊どもはニキタを連れて部落の外れの農家に入った。

タラムゼが「旦那はいるかえ。女を連れてきた」と、ニキタを指差し、骨太い白髪混じりの女に話し掛けた。 女はニキタをぎろっと睨んでから「ちょっと待ってな」と言って、3人を土間に待たせた。
ニキタはここに連れて来られて、最後まで認めたくなかったことを今となっては認めざるを得なかった。 自分が売られていくということを。
昔「人買い」の話を聞いたことがある。人買いに売られたら、 家族とも好きな男とも切り離されて夜毎に別の男の相手をさせられるという。 まさか、それが現実のものとなって我が身に降りかかってくるなど夢想だにしなかった。 今「人買いに売られる」という言葉が心に芽生え、脳を支配した。 それ以外何も考えられなくなった。思考が停止した。

旦那という大男が土間に入ってきた。「今はアカの天下でなあ。この商売もごっつ難しうなった。 それに儂はロシア女を注文したはずだ。話しが違うな。 済まんが、この娘は持って帰ってくれんか。この種の女はややこしうてな」

「旦那、こちらだって、今どきこの商売は命がけですぜ。旦那のたってのご要望だったから、 四方八方手を尽くして苦労の末ようやく手にいれたもんですぜ。歳は二十歳で美人だ。 なんと言ってもグルジアとカルムイクの掛け合わせですからね。スタイルはいいし、従順でよく働く。 あちらの方だって折り紙つきでさ」と卑屈な笑いを浮かべる。 
「能書きはいい。半値だ。それでいやなら連れて帰れ」 
「半値はないでしょう。せめて7掛けで手を打ちましょうや」 
「うるさい奴だ。半値が出せる精一杯じゃ」と財布の中から、どこの紙幣か分からないが、 手垢のついたよれよれのお金をごっそり取り出す。唾をつけながら、旦那が1枚1枚数えて行く。 それを見る山賊どもの目がぎらついていた。
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