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カルムイキア
(ニキタの一生)
 

春が過ぎて初夏となった。
ニキタとはあれ以来なんどか会って将来を語りあった。先ず羊5頭をそろえてニキタの親に会う。 ニキタを嫁に貰ったら、もっと頑張って山羊を狩り、自分たち二人の羊を増やしたい。 子供もたくさん作りたい。
だが今の自分は、ロシア人から見れば徴兵忌避者、つまりは国家に対する反逆者だ。 このままではいつまでも逃げ隠れていなければならない。
自分の土地で他民族に追い廻されて泥棒のようにこそこそ逃げるのはいやだ。
いつかこの地からロシア人を叩き出してカルムイクの国を建てる。
ニキタはグダイの危なっかしい話を夢のように聞いていた。
「兄が無事に帰ってきたらグダイと仲良く付き合ってくれるだろう。 でもグダイは兄と仲良くするだろうか」という思いが頭をかすめた。
ニキタはグダイの手に触れるのが好きだった。触れたあといつも後悔はするが。
ただこれは文字どおりの後悔ではなく、その後悔は長続きもしなかった。
自分自身もしだいに熱中していた。棘々草のやぶは背が低く、誰かに見られるのではと気に掛かったが、 グダイの望むことには何でも応えたいと思った。
ずっとグダイの傍にいたいと思ったが、そうは行かない。
寂しさを紛らわすため食料集め、羊の乳絞り、洗濯、子守りなどに思いっきり精を出した。 それでも寂しくて涙が出る。暖かい涙だった。
ついにグダイが5頭の羊を連れてやって来た。父親も一緒だった。
グダイは父親からもらった灰色の羊毛の帽子をかぶって堂々たるものだった。
親同士の話で、ここ暫くグダイは実父と共に山中に暮らし憲兵の目を盗んで妻のもとに通うことになった。 ニキタの両親もおじいさん、おばあさんも大喜びだった。グダイはそれからも野生サイガの狩猟を続けた。
ニキタ18歳のとき母親から「ロシアで2度革命が起きた」と聞かされた。
最初はメンシェビキ(社会主義少数派)主導の革命だった。 彼らはニコライ二世の王政を転覆したが第一次大戦(対独戦争)は続けられ、民衆の生活には変化はなかった。 つまり相変わらず、ひどく苦しい状態が続いた。
当時ドイツは東からはロシアに、西からは英仏に挟まれ大苦戦を強いられていた。陥落寸前だった。
ところが優勢であるはずのロシア軍は兵器の質と量、兵の練度、司令部の戦略、戦術、 統率力など全ゆる意味においてドイツ軍よりひどく劣り、大崩壊の寸前にあった。 いくつかの戦線においてロシア兵の敵前逃亡が雪崩現象を起こし、 それを押し止めようとする将校は血祭りにあげられた。 軍用列車は逃亡兵を満載して首都ペテルブルグ、モスクワを目ざし、戦地に向かう補充兵も彼らと合流して内地への還流を起こした。戦争遂行は実質上不可能となった。
ボリシェビキ(多数派共産党)が即時停戦、労働者独裁を掲げてクーデターを起こし、 メンシェビキから政権を奪取した。1917年11月7日のことだった。
旧暦の10月だったため、彼らはこれを10月革命と呼ぶ。
同月8日にはドイツ、イギリス、フランスなど全ての交戦国に無賠償、無併合、 民族自決の原則による講和を呼びかけた。(平和に関する布告)
西側列強は革命政府による講和の呼びかけには応じなかった。 結局、革命政府はドイツと単独講和を行い、独ソ戦争は終わった。
「人は平等で、平和に生きる権利がある。革命の究極の目的は人間の開放である。 人を愛するがゆえに革命をする。人民の敵と戦う」という。
今まで見たことも聞いたこともない思想だった。若いニキタは社会主義に感動した。 しかし今のニキタはグダイのことで心がいっぱいだった。
社会主義の感動は一過性の暴風に似ていた。鮮やかな風がニキタの心を揺すった。 ただ、どんどん入って来る、聞きなれない言葉には馴染めなかった。
「...主義(者)」、「...性」、「...的」という言葉が多用された。 例えば、共産主義、資本主義、帝国主義者、反政府主義者、思想性、積極性、主体性、原則的、民主的などなど。 これらを使えば、いっぱしの進歩的教養人を気取ることが出来た。
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対独戦線から多くの者が復員してくるという噂も聞こえて来たが、叔父と兄は帰ってこなかった。 実際、親戚知人で復員した者の名は聞かなかった。
それよりも先に山中に逃げ隠れていた者たちが山から降りてきた。
彼らは馬や羊とともに村々に帰還した。国中で一挙に活気が戻ってきた。
ニキタとグダイは一緒に住むことが出来るようになった。 グダイはしばらくニキタの家族と同居することにした。
グダイの実父、モリバの「ニキタの家は大家族だから、男手が要る」という一声で決まった。 グダイの母親は夫の決定に口を挟まなかった。
グダイは野生の山羊猟によって新たに羊3頭を増やしたが、このうち2頭がニキタの家族に加わった。 ニキタは飢餓から救われたことに感謝した。 グダイにも、両家族の親達にも、そして貧しい人々を慈悲の心で見守ってくれる仏陀にも。
おじいさんが教えてくれた。「人は皆、山より海より大きな仏陀の心のなかで生きている」 ニキタは朝に、夕に、兄が無事に帰って来ることを仏陀に祈った。

ロシアの赤軍はよく戦った。
生まれたばかりの社会主義政権は弱く、反革命軍の反撃と西側列強軍の干渉に遭い、まさに風前の灯だった。 だが社会主義革命はロシアの貧しい人々の心に火をつけた。 長いあいだ苦しめられてきた人々は理屈抜きに社会主義が自分達を救ってくれると心から信じた。 多くが進んで革命に身を投じた。
赤軍に入隊し、極寒の中、食うや食わずで反革命軍や干渉軍とよく闘った。 若い男女が多く、彼らは歌い、踊り、陽気に笑った。平和と平等の信念に燃えた。
ニキタの兄、カラバクもそのひとりだった。 ニキタの叔父は対独戦争で戦死したが、カラバクは生き延びて赤軍に身を投じていた。
共産主義を学び、明日のロシアに希望を抱いた。
因みにロシアについて言えば、この国は1237年の蒙古浸入に始まる240年のあいだ蒙古(タタール)の支配を受けた。これを「タタールのくびき」という。
ヨーロッパがルネッサンスを謳歌している間、ロシアは「タタールのくびき」に苦しめられ、 ヨーロッパ人が自由と平等を求めて市民革命を戦っている間、 ロシアの人々は農奴として人権を奪われたままだった。 ロシアは最後まで「アジア的」専制のもとで喘いできた。
革命後のロシアは内戦と列強の干渉、さらに壊滅的な経済破綻の状態にあった。 このため社会主義政権は自らの生き残りのため国民に忍耐と自己犠牲を求めた。 もともと民主主義を知らず、専制政治になじんだ風土は社会主義を決定的に歪(いびつ)なものにした。 ロシアは社会主義という超近代的な「装い」と専制独裁という前近代的な「中味」、 つまり矛盾する二面を内包することになった。
カラバクはロシア社会主義の二面性など毛先ほども考えていなかった。
社会主義を心から信じた。世界中に社会主義が広がり、人々が平等で助け合って生きることが出来るなら 自分はそのため討ち死にしてもかまわないと思った。
実際に捨て身で反革命軍と闘った。カルムイキア狩猟民の血のゆえか、敵と渡り合うことにも長けていた。 彼は軽騎兵の一隊を指揮した。
彼の騎馬隊は敵中に深く入り込み、敵の弱点を衝き、撹乱する戦法を得意とした。
西側列強の兵器と資金に支えられた反革命軍は多くの戦線において赤軍を圧倒していた。 カラバクは敵の前線が前に出ると、その横から錐の孔を開けた。 赤軍主力がこれに続き、孔を拡げ敵戦力を分断する。
その間に彼の騎馬隊は敵後方に出て補給線を切る。奪い取ったウオッカで全員馬上の祝杯をあげる。
「ウラー!ウラー!」騎馬隊全員がこの闘いを半ば楽しんでいるようだった。
休む暇もなく、敵本体に波状攻撃をかける。兵を多く見せるため、場所を変えて何度も突撃をくり返す。 カラバクはよく鼓笛隊を使った。
夕闇の中で第1隊、第2隊、第3隊が鼓笛隊の音にあわせ左転、右転、前進、後退と鮮やかな動きを見せ、 敵の急所を的確に攻めた。
カラバクの鼓笛隊がタタンタラタッタと音をあげれば、敵はしだいにそれだけで恐怖にとらわれ後すざりを するようになった。昔、オーストリアの兵はトルコ軍に包囲された。
彼らはトルコ軍の軍楽隊が奏でる「トルコ軍隊行進曲」を耳にすると怖れ、震え上がった。 白軍の怯(おび)えはこれと似ていた。
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白軍とは - ロシア帝国領内の各地で設立された反革命軍をいう。
旧ロシア帝国軍と右派コサック軍で構成されていたが、その内訳は多数の共和主義者と少数の専制主義者であった。当時、国外から白軍を支援したのは主に英・仏であった。
白軍司令官として名立たるデニーキン、コルチャク、セミョノフなどは、一時、ロシア、ウクライナの多くの地方を支配下に置き、圧倒的な強さを誇ったが、白軍の内紛と赤軍の質量の増強により次第に敗北に追い込まれていった。
カラバク隊を含むソビエト南部方面軍は白軍をクリミア半島に追い詰め、終戦を迎えた。 それは革命勃発から3年後の1920年11月のことだった。赤軍も甚大な被害を受け、 (ペレコプ=チョンガル作戦と呼ばれた)この戦闘だけで赤軍死者数は20万に上った。
白軍側の多くはこの地から国外に亡命した。

カラバクはカルムイキアに凱旋した。凱旋といっても、あくまで赤軍の一兵としての帰郷だった。 家族に会い、妹夫婦にも会った。ニキタはびっくりするほど美人になっていた。 そのニキタに抱きつかれてカラバクは戸惑った。
今までこんな美人に抱きつかれたことはなかった。体つきも完全なおとなの女だった。 ニキタの夫のグダイは優秀な猟師だと聞いた。
一瞥して確かにその通りだと思った。ただ、カラバクには義弟が自分に投げかけてくる 挑戦的な視線が気になった。
グダイはカラバクから匂うロシア臭に強い反感を感じた。 カラバクはとても朗らかで彼の話しぶりには人をひきつける魅力がある。 兄とはいえ彼にまとわりつくニキタに嫉妬さえ感じる。
「もしかして俺はニキタに似つかわしい男ではないのではないのか。 カラバクのような性格の男のほうが彼女にふさわしいのではないのか」と ニキタが楽しそうにすればするほどグダイの心は暗く沈んでいった。
共産主義者はどこでも映画俳優のごとく歓待され、彼らの演説はキリストの福音のごとく民衆に伝えられた。 アコーディオン弾きが革命歌や赤軍の歌を明るく、力強く、時には激しく、時には切なく奏でる。 大衆の心は共産主義に惹きつけられた。
人々は歌い、笑い、働いた。

ところが、ソビエトは反革命軍を排除するなかで、徐々にその容貌を変えていった。 革命はそれが成就するまでは人民のものだったが、成就した瞬間に支配者に仕える道具となった。 あらゆる異見は否定され、排除されていった。
帝国主義の包囲網にあっては「戦時共産主義」(1918-1921) により人民の強制と収奪が正当化された。 農民の蓄えは根こそぎ収奪され、労働者のストライキは銃殺刑という酬いを受けることになった。
ロシアの革命家であり共産党の理論家であったニコライ・ブハーリンは 「我々は戦時共産主義を、戦時、すなわち内戦という限定的状況下に合わせたものではなく、 勝利したプロレタリアートによる経済政策の普遍的な、いわば正常な形式であると認識していた」と述べている。 つまり内戦により余儀なくされた過渡的政策ではなく、共産主義の普遍的な政策だったと述べている。
あっという間に革命直後の自由な雰囲気が失われていった。
カルムイキアにも冷たい風が吹き始めた。
本物の労働者革命家ではない、共産主義者の顔をした官僚たちが政治局員という肩書きで 首都エリスタの支配者となった。彼らは常に護衛兵を連れていた。
どういうわけか護衛兵たちは自らを「赤衛兵」と呼んだ。 因みに、赤衛軍とは1917年、ボルシェビキの指導のもとに編成された労働者、農民の武装部隊のことで、 赤軍の前身である。ゆえに護衛兵の彼らが赤衛兵と名乗るのはおかしいが、、
この自称「赤衛兵」とは別に実戦部隊も配備された。
数十台の馬車が大砲と機関銃を曳き、これに同行する騎兵は鋭い銃剣を肩に背負っていた。憲兵もいた。
白軍と干渉軍を叩き潰した今、彼らの主要任務は分離主義者の鎮圧、 つまりソ連からの分離独立を謀る反革命集団の殲滅にあった。いたる所で今までのロシアの枠組みからの離脱を求めて民族蜂起や反乱が起こっていた。
ソビエト政権にとって幸運だったのはそれが散発的だったこと、つまり 組織性がなかったことである。
もしこれがばらばらではなく、まとまった流れとして起こったなら、 当然ながらソビエトという脆弱な構築物はその濁流に押しつぶされていただろう。
それゆえ、ソビエトの指導者はこれがひとつに纏まらないよう腐心した。
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