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カルムイキア
(ニキタの一生)
 
西の最果て、ボルガ河畔の仏教国カルムイキアにロシア革命の波が押し寄せて来る。
革命の炎は弱く貧しき人々を解放するために燃えあがり、それが燃えつきると凶器となった。...
 
伽耶雅人
グダイ、愚かなる弟より
          

カルムイキア共和国 −
カスピ海の北西、ボルガ川西岸に位置するヨーロッパ唯一の仏教国、かつロシア連邦を構成する一共和国でもある。 面積7万4700ku。人口29万2400人。人口密度約4人/ku。
カルムイクと呼ばれるモンゴル系民族が400年前、中国の新彊ウイグル地方から ボルガ河畔のこの地に移って来た。
1771年、ロシア、ウクライナなどからの移住者に圧迫されて荒地に押しやられたカルムイクは 祖地・イリ地方(新疆ウイグル自治区)への帰還を決めた。
だが、その年は暖冬のためボルガ河が凍結せず、ボルガ西岸にいた半数は取り残された。
この取り残された人々が現在に至るカルムイキア人の祖先である。
共通語はロシア語。因みに、かの革命家ウラジーミル・レーニンは、 母方の祖母を通じてカルムイク人の血を引いている。
平均降水量、1月:25mm, 7月:11mm
平均気温、 1月:−3.3℃, 7月:24.7℃
ステップと砂漠で羊が放牧され、灌漑により穀類も作付けされる。 カスピ海沿岸では水産加工も行われる。 賃金と最低生活費の比はロシア内の各共和国中でも最下位に属する(74位)。 貧困層が人口の6割を占め(同3位)、恒常的貧困割合、極貧割合は5割に達する。
一方、近くにバクー、テンギスなどカスピ沿岸巨大油田地帯をひかえ、 カルムイキア自身の石油埋蔵量も70億トンと際立って大きい。
 
(日本開発研究所発行資料より)
追記(H16.02.13 朝日新聞「草原の仏教徒 再び 迫害、漂泊の時代耐え」より):
カルムイキア共和国:気温は、厳寒期には零下20度にもなり、夏には一転して45度にもなる。 ロシアのヨーロッパ域に属しながら、住民の半分はモンゴル系アジア人で、 チベット仏教をあつく信奉している。ロシアの詩人プーシキンが「草原の友」と呼んだカルムイク人の国。 帝政ロシア、ソ連時代には迫害と漂泊の苦難が続いた。
ロシア正教(東方キリスト教の一派)を国教とする帝政ロシアは、イスラム教北上の防波堤として、 この地域での仏教普及を容認した。カルムイクとは「異教徒にとどまった者」を意味する。
しかし、18世紀の後半、イスラムの浸透やロシア正教への改宗圧力に押されて、
一斉に13万人のカルムイク人が故郷の新疆(しんきょう)に引き揚げた。 仏教文化は、残された人々によって細々と守られた。
だが、ソ連時代になると信教が禁止されたうえ、第2次大戦中に対独協力を図ったとして、 43年にはスターリンによってカルムイキア共和国は解体され、 カルムイク人はシベリアなどに強制移住させられ、仏教寺院はすべて破壊された。 スターリン死後、57年に自治州として復活、住民も帰還した。
90年10月、ソ連崩壊とともに主権宣言を採択、現在に至る。
 
ニキタの一生
ニキタが生まれたのは1917年のソビエト社会主義革命よりも18年前だった。 カルムイクと呼ばれるモンゴル人そっくりの顔をした人々が地に這いつくばって生きていた。
サイガというねじれた角を持つ山羊を連れて広大な砂漠を東西した。男たちは馬に跨りサイガの群れを追う。
ニキタの体にはカルムイクの他に1/4ほどコーカサスの血が流れている。
グルジア人だった母方のおばあさんがカルムイク人のおじいさんに見初められ、嫁入りし、 この地で遊牧の民となった。
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ニキタは物心がついた頃から日の出前の水汲み、山羊の乳搾りをしていた。朝焼けが好きだった。 遥か東方の地平線が赤紫から紅に変わるときは澄みきった冷たい空気が肺の奥に染み渡る。 ときめきが胸を締めつける。
朝食前の親たちの勤行、静かで重いコーラスに似た響きが鉦の音とともに聞こえて来る。 意味は分からないが心が暖まり、うろ覚えのお経を口ずさむ。
朝食は雑穀入りのパンと山羊チーズとお茶。仏教祭には蜂蜜パンが出る。
3ヶ月に一度の仏教祭が待ち遠しかった。香ばしい蜂蜜パンをもたらしてくれる仏陀(ブッダ)が好きだった。 粗末な朝食のあとは弟や妹の子守り。なだらかな時間が流れる。
初潮は12歳の時だった。病気と思い、不安顔で母に告げた。母は喜びの表情と深い溜息で応えた。 深い溜息はニキタの行く末を案じたものだった。ニキタはいつまでもこの母の顔を忘れることが出来なかった。 その日、母がサイガの毛で編んだ2枚の当て布と耳隠しのついた帽子を作ってくれた。
春になると不毛の地にも花が咲く。野生のチューリップが小さな黄色い花をつける。蜂が蜜を運ぶ。 甘い香りがあたりに匂い立つ。
カルムイキアがロシアの統治下に入って既に300年が経っていた。
常に税をむしり取られていた。税といっても徴収されるべき金穀はなかった。
羊、馬、それに若者達だった。帝政ロシアは膨張政策のためこれらの多くを必要とした。 すべてが消耗品だった。ニキタの叔父も兄も徴集された。
兄は性格が朗らかでみんなから愛されていた。「いろいろな世界を見てみたい」と 徴集にも自ら進んで応じた。異色の消耗品だった。
首都エリスタはロシア人官憲の町となり、口髭をたくわえたロシアの大男が痩せたカルムイクの若者を 極東やコーカサス、中央アジアなどのロシア軍駐屯地に送り出した。 数年前まではロシア帝国は膨張しか知らなかった。東へ、南へ、ロシアの国土はどんどん拡張していった。 兵にも意気揚々たるものがあった。
だが日露戦争に敗北して雰囲気は一変した。ペテルブルグやモスクワなどロシアの大都市では 労働争議やデモが頻発した。ニコライ二世の皇帝政府は根もとから揺らぎ始めた。
ロシアの国民は皇帝と地主貴族の優雅な生活をまかない、且つ伸びきった国境線を維持するため堪え難い重税と 苦役にあえいでいた。カルムイキアの遊牧民も例外ではなかった。重税というより略奪に等しかった。
この状況に更に追い討ちがかかった。1914年に第一次世界対戦が始まると馬や羊が根こそぎ連れ去られ、 みさかいなく徴兵された男たちはごみ溜めのような戦地に投げ込まれた。
銃の使い方も、まともなロシアの軍隊用語も教えられないまま戦地に投げ出され、 虫けらのように殺されていった。
多くの男は兵役を嫌い、馬と数頭の山羊とともに砂漠の奥深く身を隠した。 コザック憲兵は彼らの隠れ家を襲い、首を刎ねた。
見せしめの首は村や町の出口で鴉の餌となった。兵役忌避に対するロシア政府の断固たる回答だった。 ニキタの生活は飢餓線上にあった。
へび、トカゲ、さそり、蝗など蛋白質で出来たものは何でも口にした。
一般に砂漠というが、実際には土漠というべきで、 駱駝だけが食べる棘々草という針金のような草(カリューチキ)が地に張りついている。 ニキタの家族はこの棘々草以外は花も草も差別なく食用にした。
彼女は15歳になっていた。弟や妹の子守りをしながら食物採集を続けた。
一日中砂漠を歩き回っても糧は少なかった。疲れはしたが、毎日が楽しかった。
日の終わりには夕焼けのなかで陽に手を合わせ、うろ覚えのお経を読む。
なぜか心が澄み渡る。今日の一日があったことを感謝し、叔父や兄が無事に帰ってくるよう仏陀にお願いをする。 仏陀に兄の顔を重ねていた。
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いつも同じことの繰返しだが、今日だけは違っていた。
夕陽に手を合わすニキタを棘々草の低い茂みの中からじっと見つめている眼があった。
グダイといって、ニキタより1歳年上の16歳。
グダイは兵役を逃れて父親とともに砂漠の奥深くに隠れ棲んでいた。 ニキタを知ったのは去年ヤシクリという小さな町の外れだった。
ヤシクリにはバザール(市場)がある。グダイはバザールから少し離れた木立の下に女の子を見た。 胸を突き刺す黒曜石のような眼差しだった。母親が娘の名をニキタと呼んだ。 その日からニキタという名前が忘れられなくなった。
山中の生活は退屈だが乗馬と小弓の腕を鍛えるには、集中力を高めるという意味で、これ以上の環境はない。 弓と馬に熟達することがここで生きる絶対条件だから必死だった。
ここには矢を作るに適した材料の「矢竹」がないので葦や木枝などで代用する。
秋に刈り、乾燥させ、火で炙って伸ばし、形を整え、鉄の鏃(やじり)と羽根をつける。
それで胡弓に似た楽器も作る。馬乳酒を酌み交わし胡弓を奏でれば、宵の星がキラキラと瞬き返してくる。 カルムイクは星に導かれて新彊ウイグルからこの地にやってきたという。 グダイには誉れ高いカルムイクがロシア人の前にひれ伏すのは絶対許せないことだった。 暗闇の中で砂漠は無限に続いていた。
山鼠は用心深い。音を立てず弓で射殺すのはむずかしい。
その日グダイは父親の言いつけで4匹の山鼠を母親達のもとにこっそり運ぶ途中だった。 まっすぐに母親のバラック(粗末は仮小屋)に行かず、回り道した。
長い時間をかけてニキタをさがした。ニキタを見つけるとその場にうつ伏せになり、 じっと目をこらしてニキタの動きをひとつひとつまぶたに焼き付ける。
へびを捕らえようとして恐る恐る動くニキタの姿は、グダイの心の中では噂に聞く モスクワやペテルブルグのバレーリーナより優雅だった。
蛇がニキタの動きを感じ取り,するすると逃げだした時はよほどニキタを助けてやろうかと思ったが、 グダイにはニキタの前に出て行く勇気はなかった。
夕陽に手を合わすニキタは神々しく美しかった。グダイが母親のバラックに到着したのは夜更けだった。 グダイのぼんやりした顔を見て母親は病気ではないかと心配したが、彼は「疲れただけだ」と言って ぼろ毛布にもぐり込んだ。
瞼に焼き付いたニキタの姿があまりにも鮮明過ぎた。コマ送りの像が脳を焼いた。 胸が高鳴って一睡も出来なかった。
朝早く小屋を抜け出た。母親には早朝の出立を「憲兵に捕まったら大変だから」と説明した。 実際、憲兵に捕らえられたら一巻のお仕舞いだった。長い道のりをニキタめざして歩いた。
日の出前の砂漠で目に入るものは棘々草だけだ。持ち物は小弓と数本の矢、 それに父親から貰った鋼(はがね)の小刀。何の目印もない砂漠でも帰る道は分かっていた。 どこに行けばニキタに会えるかも見当がついていた。
ニキタは弟や妹の子守りと食料採集のため、親もとから数キロ離れた小山に登っていた。 たんぽぽに似た野草を背籠に入れ、弟や妹に硬いチーズを与えていた。 グダイはきのうと同じように棘々草のしげみに身を伏せてニキタを見つめていた。抱き締めたいと思った。 もちろん、そんな勇気はなかったが。
ニキタを見つめる眼が急に険しくなった。怒ったような顔で即座に弓を引きしぼり矢を放った。 低い位置から放たれた矢はニキタの傍にいた三角頭の毒蛇に命中した。 ニキタは驚き、矢の突き刺さった毒蛇とグダイを見比べた。
蛇も男もどちらも脅威だった。声が出なかった。「男に襲われる」と思った。
グダイはおもわず微笑んだ。
ニキタはその微笑を見て男に害意がないことを感じた。
グダイは少年の顔に戻り、草陰から覗き見していたことを恥じ入るようにそそくさとその場を立ち去ってしまった。ニキタは暫く訳も分からず呆然としていたが、はっと我に帰ると頬が朱に染まり胸が高鳴った。 弟達は死んだ蛇を奪い合って遊んでいた。
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