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カルムイキア
(ニキタの一生)
 
十三

ラシドの女房は納得した。「あんたが本当にラシドの友達なら、知ってるだろ。 ラシドは絶対悪い人間じゃない。ラシドは泥棒などしていないのに憲兵に連れて行かれた。 人民の敵だとか、わけの分からない理由をつけてさ。あたしゃ絶対に認めない。今に見ているがいいさ」
「ラシドの奥さん、俺にもラシドと同じ運命の兄がいる。 いまエリスタの監獄に入っていて、いつ銃殺されるか分からない」
「エリスタの監獄と言えばあのカラバク大佐じゃないかえ。 もしそうなら、あんたカラバク大佐の弟さんということじゃないか。ええっ、本当かい。すごいね。 うちの旦那もカラバク大佐にはぞっこん惚れ込んでたよ」
「彼を早く助けたい。ぐずぐずしていると銃殺されてしまう。何とかしたい。 何でもするつもりだが、正直なところどうしていいか分からない」と顔を赤らめ、ばさばさの頭を掻いた。 「ところで、カラバクはいつから大佐になったんだ。たしか大尉だったけど」
「いや、あたし達はカラバク大佐って呼んでいるよ。どっちが偉かったっけね」
「そりゃ、大佐に決まってるよ。まあ、どうせ今は大佐でも大尉でもないから.. 」
彼女はグダイの様子を見て、しばらく考えていたが「いいよ。いま私んちの地図をかいてあげる。 汚いところだけどそこでじっと待ってておいで。 夜になったら仲間がやってきて(カラバク)といったらドアを開けておくれ。これが家の鍵だ」と鍵束を渡し、 「ついでに」と手持ちのお金をすべてグダイに手渡してくれた。
確かに狭っくるしい、汚れた家だった。
グダイは干し肉を噛みながら夜を待った。暗くなって、彼はドアをノックする音と同時に「カラバク」という 合言葉を聞いた。ドアを開けると二人の男が立っていた。
そのうち一人が「ヨシフ」と自己紹介した。ヨシフも弓を使うという。顔は黒く、目付きは鋭かった。
「カラバクにはお前のような弟はいないはずだが」
「いや、俺はその妹の婿だ」
「わしらと一緒に牢破りする気はあるのか」
「そのつもりがなければ、ここに来ない」
「わしらの指示どおり動けるか」
「指示どおり動く」
ヨシフたちはグダイを睨みつけていたが、「よし、暫らくここで暮らしていてくれ。 準備が整ったら、連絡する」と言って、汚い家を出て行った。
「奴らはこれから俺の素性を調べるだろう」と思った。
数日、ラシドの女房がグダイの面倒を見てくれた。グダイはじっと連絡を待った。

首都エリスタから東300kmのところにカスピースクという港町がある。
カスピ海の沿岸貿易と漁業、特に蝶鮫漁で賑わっていた。
蝶鮫(チョウザメ)とは鮫という名はつくが、鮫ではなく独立した分類目を持つ硬骨魚だ。
産卵は淡水で行うため川をのぼる。大きな魚で成魚は4〜5mにもなる。
蝶鮫の卵が世に有名な黒い宝石キャビアである。
共産党政権は自らを維持し強化するため莫大な資金を必要とした。カルムイキアも例外ではなかった。 カルムイキアの共産党は漁業と海運業の国営化を決めた。漁民、船乗りから猛反発が起こった。 彼らはカスピという荒い海を相手にしている分だけ気が荒い。
「わしら命を的に懸けて仕事をしとる。国営化だって?役人に命懸けの仕事ができるか」
カスピースクの共産党支部と警察署に漁民、船乗りが乱入し、これに町周辺の農民も同調し、 建物を打ち壊し、共産党を町から追い出した。
こういういざこざはロシア全体で起きていた。
カルムイキアの首都エリスタの駐屯軍は各地に鎮圧部隊を送り出さねばならなかった。
特にカスピースクは重要拠点ゆえ徹底的な鎮圧実行を決定した。
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十四

レナは自らが所属するエリスタの共産党スネコフ政治局長あてに脅迫状を出した。
同志スネコフ御中:
同志カラバクほかの政治囚は貴方の明らかなでっち上げにより国家反逆罪の汚名を着せられた。 同志カラバクほかの政治囚に対する死刑執行は即時取り止めとする事。 さもなくば、当方としては貴方の不道徳な行為(不倫行為)を共産党中央に通報いたす所存である
というものだった。
スネコフは脅迫状の「犯人」は政治局内の誰かに違いないと疑心暗鬼に陥ったが、 まさか当の不倫相手のレナからだとは思いもよらなかった。 知的で美しいレナがカラバクなどのために捨て身で時間稼ぎをしているとは想像もつかなかった。
「とにかく処刑は暫し延期だ」
会議が開かれ、同志スネコフ政治局長の提案でカラバクほか数名の政治囚は「司法裁判」に廻されることになった。もと革命の戦友カラバク(戦友であったことは一度もないが) に対するスネコフ同志の友情が示された。
スネコフは皆の前で寛大な指導者を演じた。彼は一人呟いた。 「但し、カラバクには数日中に闇の中で静かに死んでもらう。牢獄には殺し屋は掃いて捨てるほどいる。 毒殺という手もある.. 」

エリスタ刑務所にエルダールという老いた服役者がいる。
かつてはこの国の共産主義の権威であり、広い人望を集めていたが、公金横領の汚名を着せられ、 カルムイキア共産党から除名、投獄された。
レナはエルダールを知っていた。尊敬もしていた。
カラバクを助けようと思うが、他に手立てが思いつかないので、危険を冒してエルダールに接近することにした。 彼女は政治局員という肩書きを利用した。局長のスネコフに知れたら彼女は重大な危機を迎えるところだったが、 スネコフは各地の騒乱鎮圧のため忙しく、レナの動きにまで目が届かなかった。
彼女は刑務所に行き、身の震えをこらえて所長と面会した。
「党の指示で革命前の党組織に関する資料を検証中ですが欠損箇所があるので、 当時エリスタ党委員会にいた囚人エルダールから事情を聴取いたしたい」と説明し、 エルダールとの面会許可を取った。党の指示書は偽造した。
刑務所長は共産党政治局の訪問は大歓迎だった。 特にロシア美人となれば反対する理由があろうはずなかった。
囚人エルダールに対する質疑は看守の監視下で行なわれた。 レナは党組織に関する質疑と同時並行して、事前に書き込んでおいたノートをエルダールに見せた。 (私はあなたと同じような冤罪で投獄された同志を助け出したい。名はカラバクという。 あなたを以前から知っており、あなたを尊敬している。私を信用してほしい。 もしあなたが地下組織を御存知なら、お教え頂きたい。どこの誰と会えばよいか)
エルダールは罠だと思った。アジトを摘発するための罠。しかしそれにしては単純すぎる。 もしこの女性のいうことが本当で、彼女が政治局のスタッフなら千歳一遇の好機だ。 賭けてみる価値はある。
エルダールは野太い声で提案した。「お嬢さん、今日はもう疲れた。明日続きをしよう」 「分かりました。明日同じ時間にお邪魔します」
看守はなんとか無表情を努めたが、明日またこの美人が来てくれることには手を叩いて歓声をあげたかった。 「この役目は誰にも譲らぬ!」

エルダールはレナが帰ると、古参の入牢者ハリモンを呼び 「明日、レナという共産党の政治局員にアジトを明かす。 今日中にアジトと連絡を取っておいてくれ」と指示した。
翌日、レナの党組織に関する事情聴取は続行された。
彼女は「暑いわね」と言ってブラウスの胸の部分をくつろげた。 看守の視線はそちらに集中した。汗で濡れた乳房は白かった。 一方、エルダールは指先で宙に文字を描いた。
それはレナが会うべき人の名前と住所だった。レナはエルダールの指の動きに神経を集中した。
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十五

グダイは叛徒(ゲリラ)の群れに入り、首都エリスタに向かった。
エリスタの共産党政府はカスピースクの騒動を鎮圧するため300km東のカスピ海沿岸に大量の兵と 武器糧食を送り出さねばならなかった。 大砲や食糧を積み込んだ馬車は歩兵とともに埃にまみれて町を出ていった。 人馬の喧騒が途絶えると、静寂が町を包んだ。
首都の静寂を待ち兼ねたかのようにひとつの事件が起こった。 夜、軍のパトロール隊が暗がりを行進しているときだった。
最後尾にいた二人の兵が「うっ」と言ったきりその場に倒れ込んでしまった。 それに気づいた兵たちは恐怖に駆られて闇雲に発砲した。その中の一人の胸に矢が突き刺さった。
彼も同じように「うっ」と言ったまま呼吸が出来なくなった。
矢じりに絞りたての蛇毒が塗られていたためだった。 結局、全員が毒矢と短剣で闇討ちされ、軍服を剥ぎ取られてしまった。
ひとり、ニコラエフという若い上等兵が足を負傷しただけで生き残った。
彼は「殺さないでくれ。私は軍を脱走して、このまま国に帰る。 国で許婚(いいなずけ)が待っている。お願いだ」と叫んだ。
ヨシフは抜く手も見せず、ニコラエフの首にナイフを入れる。
グダイが「止めろ」と叫んだが、その前に上等兵の首は血を吹いていた。 同時にヨシフは左手で上等兵の首に襤褸切れを当てていた。 襤褸切れはニコラエフの血を吸った。
汚れのない軍服を身に着けた賊は弾薬庫に向かった。 グダイとヨシフは軍服を着けず、黒ずんだ平服のまま歩いた。 弾薬庫の入り口は機銃座を中心にして10人余りの歩兵が銃を構えて警備している。
最初にグダイとヨシフが横手の脇道から襲った。矢が飛び、二人の警備兵が倒れた。 守備隊は「白軍だ」と叫び、機関銃を横方向に向け、矢が飛んできた方に射撃を始めた。
その時、白い軍服を着たパトロール隊が正面方向からやって来て、ぱらぱらと銃を撃ち始めた。
守備隊をびっくりさせたのは赤軍のパトロール隊が援護射撃してくれるどころか、 こちらに向かって銃を撃ち始めたことだった。三人の守備兵がパトロール隊の銃弾で倒れた。
守備兵たちがパトロール隊に向かって怒鳴り声をあげる。 「こらっ、お前らどこに向かって撃っているんだ。お前ら皆あとで銃殺にしてやる!」
しかしパトロール隊は、守備隊の罵声を無視して撃ち続けた。さらに一人の守備兵が倒れた。 守備隊はようやくパトロール隊が本気で敵対していることに気付いた。 ただ、彼らはこれが偽のパトロール隊だとは思わなかった。
何かの理由で正規のパトロール隊が「叛逆」しているものと思った。
守備隊の中には「さては社会主義を捨て、どぶネズミどもの側についたのか」と怖れたり、感心する者もいた。 いずれにせよ、敵対するかぎり叩きつぶすしかない。
守備隊の機関銃の銃口がグダイらのいる横方向から正面のパトロール隊に向き直った。
守備隊には、見えない敵と闘っているよりこの方がやりやすかった。
激しい撃ち合いとなった。ヨシフとグダイは音もなく守備隊に接近した。
守備隊の側面から大きな叫び声があがった。「弾薬庫にダイナマイトが仕掛けられたぞ。 逃げろ。皆死ぬぞ。急いで逃げろ」ひとりが走り、ふたりが逃げる。
これに連鎖反応が起こった。兵が右往左往する。機関銃手はそれでもその場に踏ん張った。 ただ気持ちは完全に取り乱しており、動く物に向かって無差別に乱射する。
ガンガンガンと耳をつんざく射撃音。守備兵の中には、とばっちりを受けて負傷する者も出てくる。 赤い血が吹き飛ぶ。
この時、弾薬庫の入り口の扉のところでダイナマイトが爆発した。
これはゲリラが仕掛けたもので、それほど大きな爆発ではなかったが、守備兵の気は萎えてしまい、 我先にその場を捨てた。
グダイたちは壊れた扉を通って弾薬庫に入った。そして、今度こそ弾薬庫に火がつけられた。 轟音が鳴り響き、町中が震えた。偽パトロール隊は奪った機関銃と弾薬を馬車に載せて、 刑務所への道についた。
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