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ビーズ
(パミールのはてに)
 
三十

ところで、「タリバン」とは一体、何者なのだろうか。なぜこういうものが現れたのだろうか。
参考まで、Mr.エイランズ著2001年1月1日付け「ソ連介入後のアフガニスタン内戦」を下に紹介しよう。 まずはアフガニスタンの状況から:(一部抜粋/補足)

19世紀、アフガニスタン(アフガン)は北方をロシアの属領(ウズベク、タジクなど)、 西をペルシャ(現在のイラン)、東と南を英領インド(現在のパキスタン)に囲まれ、 ロシア対イギリスの争奪の地 = グレートゲームの舞台であった。
第二次大戦後、イギリスがインドから撤退すると、北から徐々にアフガンの地に共産主義が浸透していった。 共産主義ソ連の影響下、それに反抗する反ソ運動も強まってきた。
1979年、ソ連は「アフガンの治安回復」の名目で軍事介入した。 その目的は、勿論、親ソ政権の防護、くわえてロシア伝統の南進政策(南の不凍港確保)だった。
アフガンの反抗勢力はゲリラ戦で大国ソ連に立ち向かった。 これを支援したのがアメリカとパキスタンとサウジアラビア。 アメリカは武器とゲリラ戦術、パキスタンは人員、訓練場、サウジアラビアは資金を。 その他、多くのイスラム諸国から義勇兵が馳せ参じた。
ソ連という巨象は狼の群れに苦戦を強いられ、消耗戦の結果、1989年アフガンからの撤退を余儀なくされた。
自国に帰還したイスラム義勇兵たちはその勢いに乗って反政府・反米活動を展開した。 アメリカが最も恐れる「オサマ・ビン・ラディン」もその一人である。
一方、アフガン国内では反ソ抵抗運動の指導者たちが連合して政権を発足させた。 アフガンの人々は彼らをムジャヒディン(=聖戦士)と呼び、 「これでアフガニスタンは平和になる」と期待した。だが、それも夢の話となる。
権力の座を巡って、ムジャヒディン同士で仲間割れが発生したのだ。 この仲間割れは内戦に発展した。これ以後、首都カブールを中心に激しい権力闘争が繰り広げられる。 その間、難民は400万とも600万ともいわれ、パキスタン・イラン・中央アジア諸国に逃れている。 そんな状況が2年近く続いたあるとき、突如アフガン南部に新興勢力が現れた。これがタリバンである。
このタリバン、あっという間に各地方の主要都市を制覇。これに対抗するムジャヒディンたちはことごとく駆逐されていった。 当初、アメリカを初め多くの国々はこのタリバンが内戦に終止符を打つだろうと考え、支援さえしていたが、 このタリバンはイスラム教の教典(コーラン)とイスラム法(シャリーア)を必要以上に過激に解釈し、 「超原理主義」と呼ばれる行動をとった。厳しすぎる処刑方法、極端な女性差別、アヘン生産の奨励などなど。
こういう情報を受けて、各国のタリバンに対する反応は徐々に硬化していった。 現時点でタリバン政府を承認している国は、 タリバンを支援しているといわれているパキスタン・サウジアラビア・アラブ首長国連邦の三カ国だけである。
「タリバン」とは、一体何者なのだろうか?
タリバンとはアラビア語で(神学校の)「生徒」の複数形。(単数形はタリーブ)
多くはジハード(対ソ聖戦)のときにパキスタンに逃れた難民、またはその子供たちで、パシュトゥン人で構成されている。 根拠地はアフガン南部の都市カンダハル。このカンダハルという町はソ連侵攻以前から貧しい町で、後進地区だった。 教育もあまり十分ではなく、そのイスラムの教えもパシュトゥン人の掟「パシュトゥン・ワリ」と混ざったものだ。 それが一時とはいえ、一般民衆の支持を得たわけはその徹底した禁欲主義だった。 アフガン民衆は長年のムジャヒディンたちの権力闘争に疲れ果てていた。 彼らは無欲で潔癖なタリバンに救民、救国の望みを繋いだのである。
彼らの指導者はムハンマド・オマル。カンダハル近郊の農村のイスラム指導者(ムラー)だった。 長期化する内戦を憂い、90年代前半、弟子たちともに立ち上がった。 その頃、(アフガンの主たるパトロンとなっていた)パキスタンの対アフガン政策は手詰まり状態にあった。(中略)
そんなときに、パキスタンはアフガン南部カンダハルで勢力を伸ばしつつあったタリバンを見つけ、 以後、公然とタリバンの支援をするようになった。
さてこのタリバンなのだが、かなり「変」である。まず、彼らのイスラム(宗教)はアフガンにはそれまで存在していなかった。 アフガンには三つのイスラムがあった。一つ目はスンニ派の伝統的イスラム。 二つ目はその伝統的イスラムにスーフィズムという神秘主義的傾向を加えたイスラム。 そして三つ目は60年代のイスラム急進派である。
しかし、タリバンはこのどれにも属さない独自解釈のイスラムを信奉し、それ以外のイスラムは間違ったものと決めつけている。 彼らが独自解釈に至った原因は、パシュトゥン人だけの掟「パシュトゥーン・ワリ」が影響を与えていたことと、 貧困による教育不足のために不十分なイスラム知識しか持ち合わせていなかったことがあげられる。その例をいくつか挙げる。
◎性犯罪者に対する処刑で彼らは前代未聞の処刑方法を行った。 獣姦の罪で死刑を宣告された三人の男は、土とレンガの巨大な壁の下に連れて行かれ、 その壁を戦車が押し倒し、瓦礫の下敷きになって死んだ。タリバン曰く「イスラム法に基づいた処刑」だそうだ。 しかしこんな処刑は他のイスラム国では行われていないし、イスラム法には「壁を崩し、その下敷きにさせて処刑せよ」ということは書いていない。
◎また女性の存在も否定している。女性は教育を受けてはならず、働いてはならず、町によっては外出すらしてはならない。 なぜなら「女は誘惑により、アラーへの信仰を妨げるもの」だからだ。 女性の国連職員ですら活動を禁止され、鞭を打たれた職員もいた。 餓えで苦しんでいる人々への食料援助要員ですら、女性という名目で活動を禁止された。 アフガニスタンでは内戦・干ばつ・地震により、十分な作物が収穫できず、餓死者が50万〜100万人と言われているのにも拘らずだ。
◎さらに西欧の文化だけでなく、アフガン国内に暮らす諸民族の文化までも否定している。 音楽・踊り・スポーツ、そして凧揚げすら禁止された。 96年12月、カブールで発表された宗教警察総本部の布告には次のように書かれている。
「6. 凧揚げの禁止。凧を売る店は廃止されなければならない」
「12. 結婚式での歌や踊りの禁止。これに違反した場合は家長が逮捕され、罰せられる」
◎さらにさらに、麻薬には反対しているが、アヘンには賛成の態度を取っているのだ。
イスラム教では麻薬は厳禁だが、彼ら曰く「アヘンはアフガン人には消費されず、イスラム不信者に消費されるからいいのである」と。 つまりこれは、海外にアヘンを輸出しているということだ。 95年以降、カンダハル一帯ではアヘンの生産量が飛躍的に増加した。タリバンがケシ栽培を奨励しているからだ。
このアヘンはイラン・中央アジアを通ってロシアやEU、アメリカ、そして全世界に流れ出ている。 このようなタリバンの偏ったイスラムはアフガンをパシュトゥンと非パシュトゥンに二分してしまった。 タリバンは支配地域を拡大させると同時に、その独自のイスラムを諸民族に強制したからだ。 そして非パシュトゥンの文化を破壊していった。 各勢力の残兵たちが山賊の親分のようなコマンジール・マスードのもとに集まり、 北部同盟を結成する背景にはこういったタリバンの蛮行があったからだった。
またアフガンに暮らす普通の人々も彼らを恐れた。 ムジャヒディンたちが内戦をしていた時代の方がまだ「自由」はあったのだ。 ムジャヒディンたちは「イスラム原理主義」と呼ばれていたが、それでも社会の近代化には前向きだったし、 女性の地位も認めていた。しかしタリバンは、反近代的・反欧米的、そして女性を認めなかったのである。 またタリバンは国際的な承認を受けていない。国土の90%以上を獲得しているにも関わらず、国連の代表権も持っていない。 代表権は依然として北部同盟のラバニ大統領が握っている。

(注)上記は2001年9月の世界同時多発テロ以前のアフガン情勢を記したものである。
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三十一

後年、アメリカはタリバンを敵視するようになり、2001年9月アメリカで同時多発テロが発生すると、 アルカイダを匿ったとしてアフガン戦争(不朽の自由作戦)を始めるが、この当時(1990代中頃)、 彼らは新興タリバンの勢いに着目し、タリバンとの親密な協力関係を構築しようとしていた。
つまり、今ではまったく考えられないことだが、アメリカはタリバンを通じてアフガンを他の中東産油国のように近代化(富裕化)させ、 親米化させようとした。実際、アメリカはタリバンと石油パイプライン敷設の交渉さえ始めていた。 (この情報を得た日本の商社、メーカーは「好機到来」とばかり色めきたった。 現地でタリバンとの直接コンタクトを試みた商社も幾つかある)
そのパイプラインは元ソ連領のカスピ海やアラル海の海底石油を(反米イランを迂回して)アフガン経由で パキスタンに流すという一大プロジェクトだった。 当然ながら、アメリカはタリバンがもとソ連の一部であった中央アジア諸国(タジク、ウズベクなど)に浸透するのを抑えれず、 黙認し、隠密に後押しさえした。
一方、ただでさえ中央アジア諸国のイスラム化に神経を尖らせているロシアにとってイスラム化の尖兵たる タリバンが旧来のロシアの縄張りの中に浸透してくるばかりか、そこから石油を掘り出してパキスタンに持ってゆくという アメリカ(オイル・マフィア)の策謀に一枚噛んでさえいる! これは既にロシアの許容値を超えていた。タリバンの駆除はロシア軍にとって至上命令となった。

マリオとの話しを終えて、ビーズはひどく疲れを感じた。 自分はアメリカとロシアの陣取り合戦に加担するために苦労しているわけではない。
実際、当地でビーズの耳にも入って来る最近の目立った動きと言えば、 南部のアフガン国境地帯を中心にイスラム原理主義者が増殖を始めたことだ。 彼らはビーム誘導の機関銃とか、携帯型ミサイルなどを携えているという。
ビーズにはそれらの具体的な性能など分からなかったが、患者や医者見習いの話から、 従来のソ連製兵器の性能を何倍も超えるハイテク兵器だということは容易に想像できた。
どうも、彼らは右手にコーラン、左手に剣をかざして疾風怒濤の如くユーラシアの大平原を侵した 昔のイスラム戦士を気取っているように思えた。マリオは彼らのことを「狂犬のような」と言ったが、 反政府勢力全体にとっては自らの体内に巣食う「癌」のような存在だろう。 ビーズは思った。彼らは反政府勢力全体を混乱させ、あらぬ方向に導き、結果、自滅させようとしている。
一方、タジク政府側はどうかと言えば、一旦冬籠りを決めたが、タリバンの動きを察知するや、 新たにロシアにアフガンとの国境地帯やイスラム支配域の空爆を要請した。 ロシア空軍はそれを受けて、大空襲の準備を進めている。
マリオが言っていた「春になったら大衝突が起きる」とはこの事だろう。
ロシア軍はチェチェン紛争が泥沼化しているため、正直のところ、現状、タジク紛争どころではないが、 脆弱なタジク政府軍を支えなければロシアの対イスラム防衛網は破綻する。
軍部からの圧力も強まっているという。軍部の圧力は別にしても、このままでは、 油断ならぬタジク政府を超大国アメリカに走らせる結果にもなりかねない。結局、ロシア大統領は空陸軍にGO-SIGNを出した。

確かに状況はビーズの手に負えないものになりつつあった。
何とか殺し合いを止めさせたい。だが、もう自分の出来ることはなさそうだ。
何か裏切られた気持ちを感じつつ、重い足取りで我が家にたどり着いた。
リナに話した。事態はビーズの意図せぬ方向に動いている。
「俺はひどく疲れた。限界を感じる。もう俺の出来ることはなさそうだ。二人でどこか静かな場所に移り住もうか」
「私、どこでもあなたについて行く。どんな苦労だってする。 でも、ここの患者はあなたを心底信じている。あなただけを頼りに生きているのよ。 私があなたのように出来るなら、どんなに幸せか。これほど素晴らしいことはないと思う。 限界を感じるなんて言わないで、お願い」
「リナ、ありがとう。君の気持ちは嬉しい。でも、ご覧よ。 いくら人を助けても焼け石に水ではないか。ちょうど地獄でお医者さんごっこをしているようなものさ。 こういうのを徒労と言うんだろう」
「あなたは自分に多くを求めすぎているんじゃないの。何もかも自分に引き受けようとすれば無理がたたる。 自分の出来ることを精一杯やればいいと思う。確かに、あなたが手を尽くしても、どうしようもないことだってある。 救えないこともある。でも、あなたは忙しくて知らないかもしれないけど、死んでいった人の多くはあなたにとても感謝していた。 この前、死んだお爺さんも『生きていて良かった』って涙を流していたわ」
「それは自分でも感じている。いや、言いたいのは、俺がどんなに頑張っても殺し合いを止めることは出来ない。 世界の人々に殺し合いを止めさせるよう訴えても、大国の思惑の前につぶされてしまう。 一人一人を助けても、飛んで火にいる虫のように多くの人が死んでいく」
「でも、ここの人々はあなたを必要としている。私もあなたと一緒なら死ねる。 私はあなたにこの生き地獄のなかで一人でも多くの人を救ってほしい」
ビーズは驚いた。リナからこんな強い言葉が出て来るとは思わなかった。
その通りだ。一人でも救うことが出来れば、それで十分ではないか。 アメリカとロシアの陣取り合戦などどうでもよいことだ。自分の出来ることをやればよい。 自分を必要とする患者がいれば進んで往診もしよう。
「ねえ、ビーズ、元気を出して、ね」とリナは顔を赤らめてウインクした。
リナは俺がまだしょげていると思っているな。この際、そう思わせておこう。

ランプの灯の下で天使のようなリナが一夜の娼婦になった。 アンナからのお下がりだという黒い下着がビーズの欲情を燃え上がらせた。 ビーズの突進を受けてリナは絶叫とともに陥落した。 陥落後、気持ちよさそうにビーズに身を寄せるリナの聖少女のような清らかな顔を見つめながら、 彼は女の不思議を感じた。「天使と娼婦が同居している」

明くる日、ビーズは遠くの山脈まで馬を走らせ、マリオと短いコンタクトをとった。
「マリオ、昨夜はありがとう。色々考えたが、これからもここで活動を続ける。
もし医薬品などの支援が可能なら続けてほしい。ソグドの末裔たちに、そちらに取りに行ってもらうことにする。 それから、アピール手記は書きつづける。画像を付けて君に送るよ」
「了解、ありがとう。医療品は継続する。高性能のビデオカメラも送る。だけど無理はしないで。 危なくなったら連絡してくれ。その通信機もそろそろ捨ててくれ」
「了解、ありがとう」
「チャオ。ビーズ、くれぐれも気をつけて」

その日から、ビーズは往診も始めた。往診を重ねるうちに往診先から迎えが来るようにもなった。 2〜3人の狩人のような銃を持った男達が送り迎えしてくれる。 それは、ビーズの村の長老達が往診先の部落に出した条件のようだった。
長老と言っても普通の老人で、皆が愛称のように「長老」と呼んでくれるから「長老」ということになっている。 特別の権限があるわけではなかった。彼らはビーズがいるだけで安心していた。 ビーズを離したくない。「どうしても、ドクトルが往診に行くなら二重、三重の護衛をつけねばならない」と頑固に主張した。
厳寒の中、深い山間への往診はビーズにとって息切れのするほどの苦労ではあったが、 この苦労は救いでもあった。生きる証だった。「逃げなくて良かった。リナの言う通りだった」

マローズの弟シャリーとアメル、孤児のダリサ、レイラなどの「医師見習い」は良く働き、良く学んだ。
少なくとも、どの薬がどういう症状に効くのか、どう使うべきかなど基本的なことは理解してくれた。 衛生管理、栄養補給などの重要性も理解するようになった。 今まで気付かなかったが、人を育てるということはなんと素晴らしいことだろう。ビーズは疲れを感じなかった。
少年達は切開や縫合までは行かないが、負傷者の止血や消毒、傷の手当ても出来るようになった。 聴診器も使えるようになり、ビーズが往診に出ても、ある程度はあとを任せることが出来るようになった。
ビーズはレントゲンを欲しがったが、それは当分無理だった。抗生剤を始め医薬品の備蓄が出来たことは嬉しかった。 遠くの往診先にはどうしても一度に多量の医薬品を持ってゆかねばならない。
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三十二

マローズは時々やって来て、リナに「お土産」の小麦粉や鶏などを手渡し、弟たちの元気な顔を見て帰って行く。
マローズとはロシア語のジェッド・マローズ(サンタクロース)のこと。 物資の担ぎ屋で凌ぎを得ているので、皆からそう呼ばれる。彼自身も好んでマローズを通している。 彼は弟たちが「医者見習い」をしているのが嬉しくてしようがない。
「シャリー、アメル、二人ともしっかり勉強するんだぞ。このチョコは皆と分けて食べろ。また来るからな。元気でいろよ」
マローズの弟や孤児たちは「お医者さんになってビーズのように人を救いたい。お医者さんになってリナのような美人を嫁にしたい」という。
ビーズは「こいつら、なかなか正直だ」と思った。
リナは彼らを見ていると、死んだ弟のビーデルを見ているような気がして、 服を洗ってやったり、ご馳走を作ったり、話を聞いてやったりした。 女の子たちとは一緒に糸を紡いだり、編み物もした。
リナは最近、ビーズが村人達とにこにこ顔で話しているのをよく目にするようになった。
彼女にはそれがとても嬉しかった。小枝にとまる小鳥の鳴声を聞きながら、そろそろ春が来るなと思った。 ビーズは往診の依頼を受けると、どこに行くにもリナを同行させた。
リナは往診の道々ビーズと色々な話しをした。彼女は「どんな宗教も、一番大事なことは人の心を救うことだと思う。 私の母はいつも『この世に欲と未練を持ってはいけない。それから解放されることが、 心を救う唯一の道』だと言っていた。でも、それはたいへん難しいことだわ」という。 「欲と未練を捨てる」ということには何か共鳴するものがある。
ただ、ビーズはリナのいない世の中で生きるのはもう厭だった。 だから、いつも同行させた。それも未練というのだろうか。

道中、頭上に仰ぐパミールの連峰は純白で、冷たく気高かった。夕方には山が黒いシルエットになり、 その上に巨大な空が立つ。太陽が雲の切れ目から太い光の束を投げ落とす。
それはあまりにも雄大で人間が蟻よりも小さく見える。 生きていると、凄いものに出くわすことがあるものだと驚かされる。リナは空に向かって両手を合わせている。
ビーズはリナといるとなぜか心が澄んでくる。不思議だった。

往診と言っても日帰りは無理で、最低2〜3日は逗留する。
そうすると、近辺の村からビーズに「もう一歩足を伸ばしてほしい」という使いが来たり、 病人本人が逗留先までやって来ることもある。ビーズはすべて快く受け容れた。
お蔭で旅から旅の行商のようにもなった。
旅先では豆や鶏肉などを入れたシチューのような物を出してくれる。 暖かくて美味しかった。何よりのご馳走だった。
道中では時々、羊の焼肉屋に出くわす。これに、にんにくの茎や生の玉葱などを添えると最高にうまい。 ビーズが「生きていて良かった」というと、リナは嬉しそうに頬にえくぼを浮かべる。
リナをいつも連れて行く理由は、言うまでもなく「絶対にアンナのような死に方はさせたくない。 生も死もともに」ということだが、実は他にもう一つの理由があった。
人里離れ、雪に埋もれた農家では、親爺が申し訳なさそうな顔で「我が家はご覧の通りの有り様で、 先生にお礼をしとうにも、お渡しする物は何もござらん。せめて、今晩はこの娘にお相手させていただこうと.. 」と、 酒と若い娘を差し出してくる。
勿論、ビーズは何も受け取る気はないが、これを断わったら主人と娘の面子を潰すことになる。 こういう地方では面子はアラーの次に大事なものらしい。
仕方ないから、一旦申し出を受ける。
夜遅くまで娘に今までに見聞きした話などをしてやる。娘の気持ちが解けたところで、ビーズは酒を呑み、酔い潰れる。 娘からモーションを掛けられても対応不能、朝まで寝たふりをする。
娘は親爺に「あの先生は酒に弱すぎる。ゆうべは完全に酔い潰れちゃったわ」と報告する。 親爺は「残念だな。折角、賢い血を分けてもらえるチャンスだったのにな。 今度は生卵を飲ませて、酒の量を少し減らしてやろう」と親爺は親爺らしい姦計を巡らす。
リナが傍にいると、さすがに娘を差し出す者はいない。
ただ、ビーズは「貞操に厳しいイスラムにしてはちょっと習慣が違うな」と思った。
賢者の血は別らしい。

春がやって来た。
雪が溶け、川の水が溢れ、氾濫を起こし、緑が萌える。羊は喜び、野山に散る。
ただ、道は泥濘(ぬかる)み、寸断される。往診がむずかしくなる。
それでも、ビーズは往診をやめなかった。その頃には色々な道を覚え、分かる場所には 案内人を断ってリナとともに行動した。ふたりで馬を走らせるのが至福の時だった。

そんなある日、山間の道路で数十人の武装集団と鉢合わせになった。 彼らはビーズとリナに狼のような鋭い目を向けた。「女は目が青いな、ロシア女か。上玉だな」「連行しろ」
迂闊だったようだ。やはり案内人を断ったのは間違いだったか。仕方がない。なるようになれ。 だが、リナだけは逃がしたい。ビーズは心の中で叫んだ。「神よ、もしいるなら、リナだけでも助けてくれ!」
二人は銃を突きつけられ、一軒の古びた農家に連行され、集団のボスらしき男の前に引き出された。 馬に積んだ荷物は大きなテーブルの上に載せられた。医療具、薬品、毛布、衣類、カメラ、衛星電話、、 今はこれらの品物を見定めしているが、そのあと身体検査を始めるつもりだろう。
ビーズは「自分自身が信じていない神など当てにしてもしようがない。 ボスさえ押さえれば、あとは何とかなる」と、ジャンパーのポケットに隠し持ったナイフを握りしめ、 ボスを目掛けて突進しようとした。
だが、リナのほうが速かった。ビーズがナイフを取り出す前に、 リナは防寒コートの内ポケットからピストルを取り出した。彼女は犯される前に自殺するつもりだった。
しかし、武装兵たちは勘違いした。リナがボスらしき男に向けて発砲すると思った。
彼らは一斉に銃を構え、リナとビーズに狙いを定めた。緊張が走った。 リナが少しでも銃を動かしたら、ふたりとも蜂の巣にするつもりだろう。
「おやおや、威勢のいいお嬢さんだね。わしはイズミールだ。 お前さんたちを煮て食おうとも、焼いて食おうとも思ってはおらん。安心してくれ。 野暮な質問だが、お前さんたちはこんなところで何をしているんだね」
ビーズはほっと安心した。コマンジール・イズミールなら、山賊や強盗ではなかろう。
「私はビーズ・サカモトという医者で、この先の村に往診に行く途中だ。これは私の妻だ」
「そうか、あんたの奥さんか。なかなか度胸の据わった奥さんだ。 わしが20歳も若かったらあんたと決闘してでも嫁にもらいたいほどいい女だ。ところで、これは何だね」
「衛星電話とデジカメだ。普通は電源を切っておいて、必要に応じてこちらからビシケクの協力者に信号を送ることになっている。 協力者とはフランスの報道記者で、こちらに医薬品を送ってくれている。 デジカメはこちらの状況を画像で伝えるものだ。 私は医者だが、戦争の悲惨さを世に訴えて、一刻も早くこの内戦を終わらせたいと思っている」
「デジカメで戦争が終わるなら、それに越したことはないがな。現実は甘くない。ところで、袖触れあうも他生の縁だ。 あんたが医者というなら、少し診ていってくれんかな。わしらの中には傷が膿んだり、骨折したり、 銃弾が体に刺さったままの者がおるんでな」
勿論、ビーズは否応もなく十数人の負傷兵を同時に治療することになった。 合計で数十人のゲリラ集団のようだが、負傷者が十数人というのはかなり苦戦しているようだ。
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