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ビーズ
(パミールのはてに)
 
十二

アンナがビーズの(文法も語彙も)間違いだらけのロシア語の説明を聞いて上手に文をまとめてくれた。 何枚もの手書きの指示書(処方箋)ができ上がった。
ビーズはアンナの手際よさに感心した。ただ、問題は薬品の廃棄分が8割以上にもなったことだ。 このなかには期限切れのものの他に、どうしても薬品名や用途が特定出来ないものが多かった。 実際に使えるものは1割そこそこだった。
しかも、殆ど全てがもともと薬効の低い年代物ばかり(新薬と呼べるものは皆無)だった。
反政府軍の兵士達はショックを受けた。 「これでは困る。多くの者が医薬品を必要としている。 なんとか廃棄分を減らすことは出来ないか」という。
「出来ない。こちらも真剣にやった。これが精一杯だ。 それぞれに指示書を作ったので、それに基づいて使ってもらえば良い。 不明な点があったら問合せいただけばよい。必要なら、こちらから治療の現場に出向いてもよい。 本来そうすべきだろう。薬の不足分については、お金を出して買うか、 それが出来ないならビシケク(キルギスの首都)かドシャンベ(タジクの首都)の中央病院にでも貰いに行くしかないだろう。 特に外傷や骨折、火傷が多いようだから、レントゲンなどの検査機器や鎮痛剤、抗生剤が多く必要だ。 残念ながら、ここには有効な医薬品が殆どない」
「分かった。中央病院から貰うと言っても、実際には奪い取るしかなかろう。 キルギスは外国だから、遠征に時間もかかるし、外国と騒動を起こすのも都合が悪い。 段取りが着いたら、我々がドシャンベに行こう。あちらでは我々の同志も少なくない。 あんたも一緒に行ってほしい。その前に、しばらくここで医療活動をしてもらいたい。医者がいなくて困っている」
「勿論、そのつもりでここに来た。ドシャンベ行きはアンナも一緒なら、OKする」
アンナは満足顔で片目のビーズを見つめた。

ブルガでは町から少し離れた山の麓(ふもと)に横穴を掘り、防空壕を造っていた。
そこに多数の病人が寝かされていた。防空壕の中は蟻の巣のように、用途別に部屋が掘られており、 ローソクが通路と各部屋を照らしていた。「これは凄い」とビーズは思った。 いつかテレビで見たガンダーラとかローランとかの石窟を連想した。ただ、これは生きた石窟だった。
先ず、ビーズがコマンジールと呼ばれる隊長に要求したことは、洞窟から上に通気孔を掘り上げること、 衛生管理を徹底することだった。空気の淀んだ地下室では健康な者でも病気になる。汚れた水から病気が伝染する。
医療知識の殆どない少年や少女が病人を看護していた。看護師見習いのようなものだ。
ビーズは治療の傍ら、アンナに通訳をしてもらい、彼らの教育に努めた。 基本的な衛生概念から教えねばならなかった。 日本では小学生でも知っているような常識から始めねばならなかった。 通気、清掃に加えて、汚水の処理、上水の確保、栄養管理、温・湿度の管理、蝿や蚊の駆除など。
確かにここは日本と比べて湿気が少ないから、汚廃物による感染は比較的に少ない。
ただ、その分、人々の衛生観念が欠けている。幸い、水の豊富な場所なので、きれいな水は容易に得ることができる。 問題は大変な数の患者の治療だった。外傷、骨折、呼吸器、消化器、循環器、、手術が必要だが、 あらゆる医療機器、医薬品が絶対的に不足していた。勿論、専門家もいない。
「看護師見習い」たちは患者の激痛に対しモルヒネを用いていた。モルヒネと言えば聞こえはいいが、麻薬だ。 ここは「麻薬の十字路」と言われるぐらいだから、麻薬は容易に手に入る。 ビーズはせっぱ詰まった気持ちになった。ひどいところに来てしまった。
患者を診れば診るほど焦りが募った。なんとかしたいと、必死で治療にあたった。アンナはよく手伝ってくれた。
多くの患者は外科手術の対象で、一人の患者に少ない医薬品を大量に投与しなければならなかった。 よく見かけるのは進行期の壊疽(えそ)だった。壊疽とは足の傷などに細菌が感染し、そこが化膿して、 皮下組織が壊死している(腐っている)状態だ。これがさらに進行すると骨まで腐ってしまう。 現実に多くが骨まで達している。すぐに処置せねばならない。切断手術も急がねばならない。
問題は何もかもが不足していることだ。アンナと一緒に仕分けをした医薬品は、 この「病院」の他に「野戦病院」にも送られていったので、すぐに底がついてきた。 ビーズはコマンジールと協議のうえ、医療機、医薬品確保のための「遠征」の準備を急いだ。 コマンジールは「奪い取る」と言ったが、ビーズはあくまで事情を説明して、医療機、医薬品を貰い受けるつもりだった。 「タジク政府がだめなら、確信はないが赤十字とか国連機関とかに駆け込めば、何とか目途が立つだろう… 」

夏の初め、いよいよ首都ドシャンベに向け出発することになった。 出発の前夜、コマンジールがビーズとアンナを壮行の宴に招いてくれた。
そこで、あろうことか、アンナがベリーダンスを始めた。 もともとプロのダンサーだからこういう場所で踊っても不思議ではないが、問題は透け透けのシミーズ姿、、下着が丸見え。 腰を前後左右、小刻みに揺すり、首をのけぞる。何とも艶めかしい踊りだ。男どもがピーピーと口笛を吹いて囃し立てる。 まさかあれがつい最近まで処女だったとは誰が知ろう。
宴は多いに盛り上がったが、ビーズは多いに戸惑った。 踊っている傍に近寄り「もう、やめろ」と叫んだ。 アンナは「みんなが喜ぶんだから、いいじゃない」という。
「そんなもんじゃない。とにかく止めろ」
アンナは踊りを止め、皆にペルシャ風の優雅な挨拶をした。「我が夫ドクトル・ビーズを紹介します。 ビーズは名医にして、日本剣道の達人。我と思わん者は、、」
ビーズは「とんでもない!」と慌ててアンナの手を引いたが、遅かった。
若い兵士が飛び出してきて「日本の剣道を教えてくれ」と、ビーズに木の棒を差し出して来た。それは牛追いの杖だった。
兵士の名をヨシフという。アンナを意識している。ビーズにはその目の動きで分った。 ビーズは図らずも「恋敵」の挑戦を受ける格好となった。「よし、やろう」
ただ、日本の剣道というなら、本来なら両手で刀を握るが、軽い木の棒なので片手で構えた。
ヨシフは剣を握ると、いきなり突っ込んできた。剣道を教えてもらうというより奇襲攻撃だ。 ビーズはこれをかわして、頭上から剣を振り下ろした。ヨシフはそれを受ける態勢に入ろうとした。 ビーズは振り下ろす剣を宙に停止させ、横にずらし、横薙ぎにした。その動きは流れるようで速かった。バシッと胴に入った。
ヨシフは恨めしそうな顔をしたが、「もう一本!」と再び突っ込んできた。
ビーズは今度はかわさず、素早い動きで下手からヨシフの剣を跳ね上げ、ヨシフの顔面寸前で自らの剣を止めた。 ヨシフはこれで、諦めがついたようだ。
両手を宙に上げ「ビーズに神のご加護を!」と叫んだ。
皆が「神のご加護を!」と応じた。

かわいそうな仔羊が生贄となった。
ビーズに羊の眼球と脳味噌のご馳走が出されたが、彼は羊の眼球など食べたことがない。
途方にくれてしまった。それを見たアンナが「私たちによき子宝が授かりますように!」と、 ビーズの手からそれを奪い取ってくれた。一方、羊の脳味噌は香ばしく絶品だった。 量もカニ味噌のようにほんのちょっとしかなかった。

村人たちはビーズに銃砲の使い方を教えた。機関銃や弾帯が非常に重たいものだということを始めて知った。 それに、撃つこともかなり骨の折れる仕事だった。
射撃の反動が強い。若い牡牛の角を持って、そいつを左右に操縦するような感じだった。 牡牛に言うことを聴かせるようになるまで、かなり時間がかかりそうだ。 すくなくとも、一度や二度の練習ではとてもうまく撃てそうもない。

次の朝、いよいよ首都ドシャンベ向け出発することになった。
簡単にドシャンベと言うが、ここからドシャンベまでは ここからキルギスの首都ビシケクまでの距離とそれほど変わらない。 道はこの地方の主要道だから、それなりに整備はされている。 ただ、政府軍が待ち構える場所に向かって進むことになる。
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十三

木立の中を進みながら、ビーズは日露戦争を舞台にした「敵中三百里」という映画を思い出した。
日本軍の斥候隊が敵中を騎馬で駆け巡る。小学生の頃にわくわくしながら観たものだが、 これから自分自身がその映画の登場人物のように敵中を行軍することになる。
キルギスの首都ビシケクからパミールまで一週間近くかかったなら、 パミールからドシャンベまでは少なくとも一週間は覚悟しなければならない。 命がけの旅となる。その前触れのように行く手には黒く重たい雲が広がっていた。
それでも、アンナは嬉しがっている。ビーズはアンナの浮き浮きした様子を見ながら、 「この明るさはどこから生まれるのだろう。 これから敵中に侵入するというのに、アンナは恐くないのかな」と不思議がった。
とは言え、ビーズも嬉しかった。愛する女性とともに馬に乗って見知らぬ高原や渓流を旅する。 これは昔、実際に夢に見た光景だった。
5人の同行兵士は二人のずっと前を進んでいた。5人の中に昨夜のヨシフもいた。
彼らは衣類や日用品の行商に化けていた。5人に8頭の馬。 衣類や毛布、日用品の中に銃やロケット砲を隠していた。 彼らの目つきは鋭く、外見はどう見ても山賊だった。 しかし実際は皆、素朴で気持ちのいい若者だった。笑うと、歯の白さが目立っていた。
彼らはその昔「絹の道」を支配したソグド人の末裔であることを誇りにしている。
ヨシフは「女が一緒では政府軍に捕まる危険があるから、悪いが、あ んた達は暫く後からついて来て欲しい」という。 ビーズは仲間から外されて、少し裏切られたような気持ちになったが、 実際は二人の安全を考えてのことだった。
時々、仲間の一人か二人がビーズとアンナをひやかしに来た。 彼らはアンナに現地語で何か喋ると「お二人さん、いいところをお邪魔して悪かったな」と逃げて行く。
ビーズはあとでアンナから「この先3kmのところに敵の分隊がいるから、次の角で右に曲がって... 」と 説明を受けた。急勾配の道なき道を進み、敵軍を迂回した。
このような調子だから、とても数日では目的地に着きそうもなく、 いつも粗食の連続だが、アンナはビーズとひとつの毛布で寝ることが出来るので この旅を苦に感じていないようだった。彼女は毎晩、暗闇のなかで日本の話をせがんだ。 日本の歴史、昔話、ビーズの子供の頃、学生時代の話、ハイテク、、 ビーズから聞くことは全て物語のように珍しく、新鮮だった。
「日本人は右の頬を殴られたら、左の頬を差し出すの? それとも殴り返すの?」
「色々あるだろうが、俺だったら逃げるね。日本では逃げるが勝ちというんだ」
「いい答えね。でも、私はあなたを逃がさないわよ。さあ、ベルトを緩めて、早く」
「... 」

朝早く、陽が登る前に2機のジェット機が飛来した。
1キロほど先の森を爆撃した。そこには5人の兵が潜んでいるはずだ。
木々の上に、続けさまに数本の爆炎がのぼる。同時にドドドーンと地を揺らし、 胸を圧するほどの爆発音が伝わって来る。ビーズとアンナは走った。
「仲間を助けねば!」と走った。
だが、全滅だった。人も馬も吹っ飛ばされて、銃や荷物も散乱していた。
「ああ、神よ」アンナは両手を地につけて、頭をうなだれた。
5人の兵の動きはどこかで監視され、空軍基地に通報されたのだろうか。
ビーズは急いで散らばった残骸を調べた。ヨシフの肩かけ鞄の中に 電源が入ったままの軍用ワイヤレス(無線機)が入っていた。 敵はこれでヨシフたちの位置を特定したようだ。
通話していなくても電源が入っていれば、位置は特定される。 ヨシフは電源を切っておくべきだった。 (電源を切断すれば味方からの緊急通話が入って来ないから、 電源を入れたまま「待ち受け状態」にしていたのだろう)今更どうしようもないことだが、 ワイヤレスを持っていると分っていれば、事前に注意すべきだった...
アンナはビーズに「あなた、手伝って」と言いながら、散乱した残存物の中から武器、弾薬を拾い始めた。 「今から散らばった武器を集めて茂みの中に隠す。5人の若者が大事にしていた武器を敵の手に渡したくない」という。
「そうだ。急いで武器を隠さねば!」ビーズは焦った。 もし武器が見つかれば、5人の若者は「凶悪なテロリスト」にされてしまう。 そして、そのアジトとして近隣の集落は政府軍=ロシア軍の攻撃に晒されることになる。
ビーズは道路脇の木立の下に穴を掘り、 そこに武器、弾薬を埋め、上に襤褸切れを被せ、さらに土と枝葉で覆った。 これが済んだら、この場を急いで離れなければならない。
「アンナ、行こう」
アンナは涙を拭きながら立ち上がり 「どこに行くの。二人だけでドシャンベに向かっても道に迷うだけよ。 それにいつ政府軍の待ち伏せに遭うか分からないわ」という。
「とにかく、この場から一旦離れて、どこかに身を潜め、それからどこに行くか決めよう」
「分かったわ」とアンナはとぼとぼと歩き出した。
ふたりは心細さで身を縮めながら馬を曳いた。烏の群れが不吉な鳴き声を上げていた。死肉を奪い合うのだろう。
ふたりは河に沿った道から離れて、深い木立の中に入って行った。 木立の奥に岩場があり、岩陰に小さな洞穴があった。 熊か何かが棲んでいた場所のようだった。
ビーズは拳銃を構えて中に入った。中には骨が転がっていたが、生き物はいなかった。
熊が鹿か兎でも捕まえて食べたのだろう。既に乾燥してぼろぼろになっているから、かなり古い。 岩穴の中は寒かった。ビーズは荷物を持ち込んで、毛布を敷いた。
「暫くここで様子見をしよう。枯れ木を取ってくる。中で少し暖まろう」
「いや、一人にしないで。ずっと傍にいて」
「分かった。焚き火はあきらめる。ずっと傍にいる」
味気ない乾パンを食べながら時を過ごした。寒さしのぎに体を寄せ合った。
それでもアンナの体は震えていた。

数時間後、トラックのエンジン音が聞こえて来た。
ビーズは馬が怖れていななきを上げないように枚(口木)をふくませ、 片目で双眼鏡を覗いた。政府軍が三台の茶緑色のトラックに兵士と武器を積んで、 爆撃現場の後始末に来たようだ。距離はまだ数キロある。 河沿いの細い道を、車体を左右に揺らせながら進んでいる。
アンナは上気した顔で「こうなれば逃げようがない。戦うしかない」という。
爆撃現場の後始末には歩兵隊が使われる。 トラックに乗った兵は爆撃現場に近づくと(残存兵の抵抗に備えて)半数が戦闘配置につき、 半数が銃の穂先で爆撃現場をチェックする。もし生き残りがいたら、 そして少しでも抵抗の気配があれば、その場で殺す。 抵抗の気配がなければ、尋問のために捕虜にする。尋問が終われば殺す。 だから見つかれば、結局は殺される運命にある。 アンナは「いま私たちが見つからない確率は限りなくゼロに近いわ。まず、馬がみつかる」という。 確かにその通りだろう。馬を殺せばおとなしくなるが、銃声がする。 それに、馬なしではこれから先、ふたりは山中で飢え死にすることになる。

トラックのエンジンの喘ぎ音はだんだんと近づいてくる。緊張が走る。
アンナが走った。武器を埋めた場所を目指して走った。 ビーズは「危ない。見つかってしまう。止めねば」とアンナのあとを追った。 しかし山中での動きはアンナの方がはるかに機敏だった。
俺は医者だ。人を殺したくない。それに、俺は武器のあつかい方など殆ど知らない。
だが、アンナひとりを見殺しにするわけにはいかない。放っておけない。 一緒に死んでやろう、と心を決めた。それ以外の選択肢は考えられなかった。
「よし、やろう」
ふたりは道路脇の窪地に着くと、木立の下から使えそうな機関銃、ロケット砲、弾薬を掘り出した。 三台のトラックはぐんぐん近づいて来る。運転手席の天井の上に機関銃が据え付けてある。 何かが動けば、先ず天井の上の機関銃が火を吹くだろう。
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十四

アンナはビーズに機関銃を岩陰に固定させ、自身はロケット砲を構えた。
三台のトラックは川の蛇行部分に差しかかっている。 車とこちらの直線距離はもはや300メートルほどしかない。 心臓は早鐘を打つ。ビーズは5人の若者たちの死体を思い出した。 ぞっとする光景だった。アンナを同じように死なせたくない。
このままでは、勿論、殺し合いになる。今ならアンナの手を引いてここから逃げることができる。 先頭の車はカーブを回り切って、正面をこちらに向けている。ビーズが声を出そうとした。
その時、「ドン」という音と共にアンナのロケット砲から鉄の塊が飛び出した。
あっと言う間に先頭のトラックに到達して、爆発する… いや、爆発しない...
不発かと思った瞬間、地を揺るがすような轟音とともに砲弾は炸裂した。 先頭の車は大きく揺れて火を吹き、動きを止めた。乗員は全滅か。よく見えない。 犬の吠える声が聞こえてきた。同時に、二台目、三台目のトラックから兵士がぱらぱらと道路に散らばった。
アンナが「やって!」という。もう逃げようがない。アンナを生かすには戦うしかない。 自分は死んでもいい。アンナを守ろう。「よし、やろう」
ビーズは教わったとおり、弾帯が絡まらないよう注意しながら、射撃を始めた。
最初、機銃弾は上に飛んだり、下を叩いたりしたが、 照準射撃の要領をつかむと、すぐに命中し始めた。 3〜4人が転がった。医者の心が疼く。
ここから飛び出していって、傷ついた兵士を助けたい。 しかし、今それは出来ない相談だ。これで俺も殺人者だ。敵に殺されても文句は言えない。
「アンナを守る。俺は殺されてもいい」ビーズはそれだけを何度も繰り返し、銃弾を撃ちまくった。 そのうち、心が少し落ち着いてきた。同時に、弾帯の残りが少なくなっているのに気付いた。 教わったとおりに新しい弾帯に切り替えた。が、先の尖った銃弾の列を見ているうちに、 これ以上人を殺したくなかった。いや、人を殺すことが恐くなった。
そこで、ビーズは敵が前に出て来ないように、彼らの前面を撃ち続けた。 犬が見えれば、後々のことを考えて犬を撃ち殺しておきたかったが、 よほど訓練された軍用犬らしく見事に鳴りを潜めており、こちらからはその姿を見ることが出来なかった。
少しの間をおいてアンナの第二弾が飛んだ。 横腹をこちらに向けた二台目のトラックが向う側に引っくり返り、火を吹いた。 アンナが「少し退却して。位置を変えるのよ」という。
ビーズは這ったまま、機関銃を持って道沿いに退却した。
敵弾が、さっきまでビーズたちがいた場所に飛来し始めた。
敵は恐怖からか、ほとんど盲撃ちをしている。中には自分から崖を転げ落ちる者もいた。
トラックの影に隠れて銃を撃つものもいたが、殆んどがトラックの後方に後ずさりしていった。 ビーズは這いながら更に30メートルほど道路沿いに退いた。
潅木の塊があったので、機関銃をそこに隠すように据え付けた。
三台目のトラックの屋根に据え付けられた機関銃が、 こちらに銃口を向けて火を吹き始めた。今のところは狙いが定まっていないが、 ビーズは敵弾がアンナに当たっては大変と思い「アンナ、早く下がれ」と叫び、 敵の機銃座を狙って撃ちまくった。
トラックのガラスが割れて吹っ飛んだ。トラックのラジエータにも着弾したのか、 トラックの前部に白い湯気が立った。敵の機関銃は静かになった。
双眼鏡で覗くまでもなく、敵兵は後方への退却を始めている。ビーズは思った。 あの若者達も好きこのんで死地に赴いたわけではなかろう。お互いこれ以上闘う意味はなさそうだ。 彼はアンナに振り向き、叫んだ。「もう大丈夫だ。これ以上やることはなかろう。 俺が援護するから、先に岩穴に戻れ」
アンナを逃がしてから、敵前方の道路に最後の弾丸を撃ちつけた。
敵からの応射は途絶えていた。ビーズは銃弾のない機関銃と、砲弾のないロケット砲を川に投げ捨てた。 彼は敵の追尾をおそれて、岩穴に直接に戻らないで、遠回りした。
途中で雨が降り出した。体も濡れたが、心も雨に濡れていた。
「俺は少なくとも3~4人の兵を殺した。もしかしたら10人近く殺したかもしれない。 もし、彼らの母親とここで会ったら、何といって言い訳をすれば良いのか。 敵のトラックが来たとき、アンナがいやがっても彼女の手を引っ張って逃げるべきだった。 俺はここに何をしに来たのか」
暗い気持ちで岩穴に着いた。アンナは岩穴の中で震えていた。 ビーズはアンナの額に手を当てた。高い熱があった。「あーん」させて喉を見た。
喉の奥が赤く腫れている。アンナの胸に耳を当てた。少しざらつき音が聞こえた。 のど風邪を引いているようだ。寒さ、緊張、疲労、それに栄養不足が原因だろう。
先ず、毛布でくるんで寝かせた。気管支炎や肺炎を起こさせないよう注意せねばならない。 とにかく、体を暖め、休ませ、栄養をつけてやらねばならない。
ビーズはずっと両手でアンナの体を擦(さす)っていたが、 夕暮れになると岩穴を出て、山の斜面から軍兵が残っていないのを確認して、道路に出た。
ひっくり返ったトラックにもぐり込み、携帯燃料や牛肉の缶詰、救急箱などをあさった。 朝には倍の敵がここに来るだろうから、明日はトラックにはもう近づけない。 今のうちに、出来るだけ多くの物を頂くことにした。鉄製のヘルメットも拝借した。
岩穴に戻り、奪ってきた軍用の携帯燃料を使って火をおこし、鉄ヘルメットで湯を沸かした。 岩穴の中が暖まってきた。同じく奪ってきた薬箱からアスピリンを取り出し、アンナに飲ませた。 それに加えて、昔、おお先生から教わった療法を彼女に施すことにした。
先ず、体をしっかり揉みほぐし、お湯で時間をかけて両足を温める。
牛肉缶を暖め、アンナに食べさせた。お腹が落ち着いたところで、後頭部、首、肩、腰、脚を指圧した。 アンナはまだ高い熱があるが、気持ち良さそうに寝入った。
その寝顔には赤らみが差し、それはまだ愛らしい少女の貌を残していた。 ヨシフ以外にもアンナに惚れている男は少なくなかろう。 そう言えば、ヨシフはもういない。寂しい。 今まで感じたことのない寂しさだ。なぜ、人は殺しあうのだろう。
とにかく、まず戦争をやめさせる手立てを考えねば... あれこれ思いながら、 ビーズは岩穴から外に出た。夜の闇がこれほど暗いものだということを初めて知った。二頭の馬が気になった。
火種を頼りに彼らの居場所に行き、背を撫でてやり、餌を与え、彼らを岩穴に近づけた。

朝になり、ビーズは道路の様子を見るために山を中腹まで下った。やはり、敵軍が来ていた。
戦車一台を先頭にトラック三台が並んでいる。 数人の歩兵が最後尾のトラックに兵士の死体を収容しようとしている。 同時に、破壊されたトラックを崖下に落として、戦車を前に出そうとしている。 「逃げるのは今しかない」ビーズは急いで岩穴に戻り、荷物を全て一頭の馬の背に乗せ、 アンナを毛布でくるみ、二人で一頭の馬に相乗りした。 アンナはまだ熱と咳があり、顔は赤らんでいたが、きのうよりは元気だった。
山を越え、谷を渡って反政府軍の拠点ブルガに引き返すことにした。 山中では見当がつかないが、とにかく東に向かって馬を走らせた。
夕方近く途中の小川で休憩した。鱒のような魚が群れているので、木槍を数本作った。 魚を目がけて、力まかせに水中に槍を打ち込むが、全然、命中しない。 場所を変えて、精神を集中する。しかしビーズが槍を構えた途端、魚は彼の殺気を感じて逃げてしまう。
ビーズは光の屈折率というものを考えていなかったから、 実際にいる場所より遠くに槍を投げ込んでいた。 何度か失敗した後にこれに気付いた。
少し近めに狙いを定めて、思い切り投げつけた。 まぐれか、魚の頭の部分に木槍が当たった。槍は魚の体には突き刺さらなかった。 だが、魚は脳震盪でも起こしたのか死んだように横向きになった。
ビーズは急いでそれを水中から拾い上げた。長さ40cmほどの鱒のような魚だった。
その後、水中の魚を目がけて何度も槍を投げつけたが、 槍が手を離れる前に魚は逃げの態勢に入り、まぐれは二度と起こらなかった。 彼は枯れ枝を集めて火を起こした。
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