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ビーズ
(パミールのはてに)
 
十八

地上の「武装ゲリラ」を殲滅した攻撃ヘリの搭乗兵は互いにVサインを送りあった。
一機のヘリが援護するなか、もう一機が着陸を始めた。 ヘリから降りたロシア兵たちがビーズに近づき何かどなったが、 ビーズは反応を示さなかった。
兵士たちはビーズの両腕をつかみ、機内に押し込んだ。 別の一機が旋回援護するなか、ビーズを乗せたヘリは離陸し、村の上空を離れた。

ビーズは機内で持ち物の検査を受けた。ぼろぼろに汚れたパスポートとカメラが出て来た。 通信兵がヴァルナ基地と交信を始めた。ヴァルナは首都ドシャンベと連絡を取った。
ヘリは「一旦ヴァルナに帰還し、明朝、その日本人をドシャンベに運べ」との命令を受けた。
「彼はキルギスで誘拐された日本人医師と判明した。機内でも丁重に扱うように」との指示だった。 サンドウイッチとコーヒーが出されたが、ビーズは何にも手を付けなかった。
ビーズはアンナが消えてしまった世界では、生きる力を失っていた。死にたいと思った。
ビーズの瞼の裏にアンナと暮らした日々の情景が鮮やかに蘇っていた。
ヘリはヴァルナのロシア軍基地に着いた。乗員たちは「我が家」に帰ったと思ったのだろう、 ロシアの流行歌をうたいだした。三人、四人と歌い出す。
低い声、高い声がうまくハモっている。何かの恋歌のようだが、ビーズの胸にずんずん響いて来る。 情け容赦なく人を殺した奴らが、何故こんなに美しい歌をうたえるのだろう。
ビーズは、悲しくて、悲しくて、片方の目から涙をぼろぼろとこぼしていた。

翌朝、同じヘリで首都ドシャンベに向かった。 ドシャンベの町に着いたら、彼は一躍有名人になっていた。 イスラム・テロリストに拉致されて数ヶ月生き延びた日本人医師。 ひとりでテロリストと闘った日本のサムライ。
大袈裟なニュース。ロシアは言うまでもなく、西側のカメラやマイクも殺到した。
彼は何を問われても、何も言わなかった。ただ、ぼさぼさの髪と髭、垢だらけのセーター、 ぼろぼろのジーンズ、それに生気のない表情は「拉致生活」の長さと過酷さを十分に物語っていた。
彼は知る由もなかったが、ロシアのテレビは「一年近くも軟禁されれば、言語障害を起こすのは当然だ。 イスラム・テロリストは被誘拐者に対して、ここまで非人道的な扱いをしているのだ」という解説をつけていた。
攻撃ヘリの搭乗兵は「猛烈な敵弾幕をかい潜って敵の拠点に乗り込み、 数時間にも及ぶ激戦のすえ、武装テロリストを殲滅。 拉致されていた日本人医師を救出した」として英雄に祭り上げられていた。 哀れな日本人医師の顔も画面に映し出された。
実際、ロシア攻撃ヘリの搭乗兵は空から地上の動きを見ていた。 その時、ビーズは四人のテロリストに無理やり引き立てられていたように見えた。 しかも、その彼が隣国キルギスの首都から数ヶ月前に失踪した日本人医師と判明した後は、 彼が被誘拐者であることに疑いを挟む余地は全くなかった。
結局、(武装イスラムによる日本人医師の拉致、ロシア軍兵士による決死の救出)という武勇伝が出来上がった。 ビーズはそのような外の状況は全く知らなかったし、興味もなかった。
彼には「カメラのフラッシュはひどく眩しいものだ」ということだけが印象に残った。
ビーズは誰とも何も話したくなかった。アンナだけが喜びだった。 それを失った今、自分が息をしているのさえ不思議なほどだった。 ロシア軍による事情聴取が行われた。
「通訳をつけようか」と聞かれ、ビーズは「いや、要らない」と断った。 彼はぽつりぽつりと行動経路を説明した。尋問者は完全に先入観を先走らせていた。
ビーズは尋問者の問いに答え、頷いた。尋問者の質問が理解できなくても、首を縦に振った。 尋問者はあくまでビーズは「拉致された者」という前提で調書を作成した。
ビーズのロシア語の不正確さも誤解の原因だったかもしれない。 彼がアンナのことを説明していれば誤解はなかったかもしれないが、 アンナのことを他人に話す気は全くなかった。
もしかしたら、ロシア軍尋問者は、ビーズが反政府軍の「自発的な協力者」だと感づいていたかもしれないが、 ここで状況を複雑化させることは自分らにとって得策ではないと判断したのかもしれない。 日本人医師が反政府軍に自発的に協力したとなれば、 ロシア軍とタジク政府のイメージを悪化させることになる。 ロシア国内はともかくヨーロッパのマスコミは黙っていない。
結局、ビーズは苦難のすえ救出された「被誘拐者」のまま、日本側に引き渡された。
日本側に引き渡す前に彼らはビーズのカメラの中のディスクを調べたが、 風景写真が幾つか写っているだけで「特に問題なし」としてそのまま返却された。 本来ロシア軍が没収すべきディスクはビーズのズボンの裏ポケットの中に隠されていた。
彼はカメラを返却されて「そう言えば」と裏ポケットのディスクを思い出し、財布に移した。

ビーズはソ連製ジェット旅客機TU‐154のファーストクラス席に着席させられてモスクワまで飛び、 在モスクワ大使館員などの出迎えを受け、ホテルでの一泊の後モスクワを離れ、成田に向かった。
成田で取材陣に囲まれたが、体調の悪さを理由に早々にホテルにしけ込んだ。
ホテルに入って、息苦しさを感じた。
全てがきちんと整っている。しかし、生きているものは何もない。 テーブルの上の花や観葉植物さえも無機質に感じた。そういう無機質なホテルで二日間待機させられた。 勿論、テレビはあったが見る気がしなかった。
何もせずじっとしていると、生き生きとしたアンナ、ヨシフ、ヤシク、ユーラ、サラームの顔がフラッシュバックする。 それに思い出したくない光景も。
彼らが血だらけになって倒れる姿、アンナが胸と下腹部をずたずたに切り裂かれて、 赤黒い血に染まっている。黒髪に小さな白い花が揺れている。 死人は悲しそうに微笑んでいる。ロシア軍基地での尋問...

電話がビーズの思考を中断させた。 政府の海外医療協力隊とかの部長と担当者がやって来て、ロビーの喫茶でお会いしたいという。
喫茶店に行くと、必要以上に頭を下げる者がいたので、すぐそれと分かった。
部長と名乗る男は心配そうな同情顔で「この度は本当に大変でしたな。お加減はいかがですか。 派遣医師等の現地警備につきましては派遣先国に厳しく要求しておるのですが、 なんせあちらのお国事情はご存知の通りでして... 」長々と無意味な釈明を並べたあと、 積立金や補償金などの額を提示して来た。 「坂本先生のお口座に毎月積立金を振り込ませていただいていますが、 それと同じ銀行口座に補償金を振込ませていただきとうございます」という。
ビーズはそのようなお金を貰う筋はないと断ったが、 担当部長は金額表のついたパンフレットをビーズに見せながら 「こういう制度になっております。無論、先生のご苦労に比べますれば、 まことに些少とは思いますが、是非にもこれでご了承いただき.. 」と誤解したまま 「自分の首がかかっておりますので」と無理やり承諾書にビーズのサインを取った。
「ご帰国後の生活にご不便がなきようクレジットつきキャッシュカードも用意しておきました。 ここにもサインお願いします」という。確かにお金がなくてはここでは暮らせない。 カードを用意してくれたことには感謝した。
彼らは最後に「帰国後の再就職のご案内」という別のパンフレットを残して、 お茶も飲まず早々に帰ってしまった。ビーズは彼らが残した書類をまとめてゴミ箱に捨てた。
ついでに財布の中味を整理していたら、以前、キルギスの首都ビシケクで知り合ったフランス人記者の名刺が出て来た。 マリオ・ダルヴォールという名前、パリのアドレス、電話番号が書かれていた。 イタリア系のとても剽軽な男だった。
そう言えば、彼は「生の声、生の映像が人々を動かし、世界を変える」と言っていた。
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十九

「なまの声、なまの映像が人々を動かし、世界を変える、か。マリオは喜ぶかな」
ビーズは財布の中に入れていたディスクをマリオ・ダルヴォールに送ってやることにした。
「以前、希望されていたなまの映像を送ります。タジクの平和の一助になれば幸せです」と 書き添えてホテルのフロントに郵送を頼んだ。 ちゃんと届くのかと心配になるほど郵送料は安かった。
ビーズは東京をあまり知らないが、東京駅だけは分かる。 タクシーを拾って、東京駅に向かった。東京駅に着いたら、急に思い立って切符と駅弁を買い新幹線に乗った。
岡山駅でローカル線に乗り換え、山陰の小都市を目指した。列車が中国山脈を越えると、暗い雨が降っていた。 列車は雨の中、急坂を転げ落ちるように走った。
駅を降りて、むかし田中医院があった漁港町行きのバスに乗った。
一時間近くかかって町に着いた。最後のバス停で降り、秋雨と風の中を歩いた。
風景は変わっていた。いや、彼の目が変わっていた。 人懐っこかった町の佇まいが今はひどく味気なく、疎遠なものに映った。 古巣に帰って来たという気持ちは全く湧かなかった。田中医院は駐車場になっていた。ここにはもう自分のいる場所はないと感じた。
近くで美味しくない昼食を取り、折り返しのバスに乗って漁港町を離れ、Y市に向かった。
城跡のある山陰の小都市はビーズにとって思い出の多い場所だった。
だが、漁港町と同じで昔の面影は感じられなかった。旧市街の道路の狭さだけが意外だった。 駅前のホテルで一泊してから帰ることにした。帰ると言っても、あてはなかった。
あてはないが、大阪あたりに出てみようかと思った。
朝になると雨があがり、すがすがしい秋晴れとなった。
ホテルの受付け嬢が「今日はこの町で一番の東山神社のお祭りですから、 是非お参りになられてはいかがですか」と言ってくれた。そう言えば東山祭りの笛は懐かしい。
どうせ、あてのない旅だ。散歩がてらにお参りしてみよう。
小さい女の子を連れた男女が何やら楽しそうに話している。アンナも、もしかしたらあの時妊娠したのかもしれない。 本人は自覚していなかっただろうが、彼女は死ぬ暫し前に妊娠の兆候を示していた。 もしそうだとしたら、我々にもあんなかわいい子が出来たかもしれない。
ビーズは小さな女の子をぼんやりと見つめていた。その子が「ママ、このおじさん、恐い。目がおかしい」という。
若い母親は慌ててその子を抱き上げて、頭をぱちんと叩き、「駄目、この子は」と叱りながら、 ビーズにぺこぺこ頭を下げた。女の子はわけも分からず、泣き出した。
「気にしませんから、お嬢さんを叱らないでください」
若い母親は「本当に済みません。申し訳ありません」と何度も頭を下げながら、遠ざかっていった。 ビーズは自分が片目だということを長らく忘れていたことに気付かされた。

今はどうでもいいことだ。それより、東山祭りと言えば、 昔よく脚や腕を失った「傷痍軍人」というのが募金箱を胸にぶら下げ、軍歌を歌っていた。 彼らの多くは休憩を取るときは、松葉杖を使わず普通に歩いていた。 その時ビーズは自分を見て、無性に腹が立った。
普通の人間がカタワの真似をして同情を買い、お金を貰っている。
カタメの自分がすごく惨めだった。

ビーズの思いは遠くに飛んだ。「ロシア兵たちも、タジク兵たちも、 多くはすき好んで兵隊になったわけではないだろう。 すき好んで人殺しをやっているわけではないだろう。 逃げる勇気がないから、他に道がないから、敵に怯えながら人殺しをしているのだろう。 悲しいことだが、、勝者も敗者もない、終わりもない。得るものは悲しみと憎しみだけか」
あれやこれや考えながら歩いていたが、気がついたら目の前に中年の女性が立っていた。
背の高い女の子を連れていた。中学生ぐらいだろう。まだ発育途中の体つきをしていた。 顔はあまり似ていないが、中年女性の娘だろう。
二人は楽しそうに話しをしている。ビーズは、目の前にいる中年女性が裕子だとすぐに気付いた。 裕子も何かのついでに帰郷しているのだろうか。
胸がどきんとした。勿論、昔の裕子ではなかった。 彼女は、自分を見つめている男が義眼を嵌めているのに気付き「確か、あなたは昔の同級生だったわね。えーと」
「義眼のビーズだよ」
「そうそう。タカ.. タカヤマ君だったっけ」
あれほど、思いつづけた女性が自分の名前を覚えていてくれなかった。
当然の事だろうが、ビーズは寂しくなった。
「そう、タカヤマだよ。済まん。ちょっと急いでいるので、また後ほど」

裕子は久しぶりに会う旧友の態度に少し驚きながらも、娘との話しの方に興味を移した。
ビーズは急いでその場から離れた。タカヤマという名前はどこから出たのだろう。
俺の名前はサカモト、坂本聡だ。
この神社に来たのは、ひょっとしたら裕子に会えるのではという期待もあってのことだった。
ほんの偶然で裕子に会えた。昔の理知的な美しさや品の良さは残していた。
しかし、アンナに見た裕子のイメージではなかった。男の心を焼くような眼差しはない。 ビーズには喜びも感動もなかった。疲れだけを感じた。
神社参りはもう止めた。
ホテルに帰ってベッドに身を投げ出すと、よほど疲れていたのか、そのまま眠ってしまった。 午後4時過ぎになって目が覚めた。
寿司でも食べようかと思って財布の中を眺めたら、ちょっと心細い。
近くにあった銀行でキャッシュカードを使って10万円ほど降ろした。
残高欄を見て驚いた。数百万の残金があった。あの担当部長が積立金やら補償金やらを入れてくれたのだ。 タクシーを拾って、町の東に聳え立つ大山(だいせん)まで走ることにした。
国道沿いのスポーツ品店で山靴、ウインドブレーカ、帽子などを買い、 コンビニであんぱんとミネラルウオーターを買った。要らない服は捨てた。
大山登山口というところでタクシーを降りた。運転手は距離を稼ぐことが出来て、 嬉しそうにしていたので、ビーズも嬉しくなってチップをはずんでやった。
もう陽は暮れていた。むかし何度も登った山なので、夜の登山にも自信はあった。
ゆっくりゆっくり歩いた。標高1731メートル。中国地方で最も高い休火山だ。
この時期、この時間に登山する者はいなかった。
山霧が立っていて、下界は見えなかった。かなり寒かった。
昔は体が軽かったせいか苦もなく登ったが、この年齢になると息が苦しい。
時々、休憩を入れた。あんぱんがうまかった。津山行きに挑戦した昔が懐かしい。
あの時もあんぱんがとても美味しかった。水は大事にした。
這いつくばって登るような急坂では思考は停止していた。登ることだけに専念した。
7〜8合目あたりではだらだら坂がいつまでも続いた。
月の明かりで、背の低い伽羅木(きゃらぼく)が群生しているのが見えた。
この光景は昔と変わらない。
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二十

昔よく思った。なぜ自分という意識を持った物体がここにあるのだろう。
自分はどこからこの世にやって来たのだろう。自分が死んだらどこに行くのだろう。 いくら考えても、答えが出なかった。無から生まれ、一瞬光り、無に戻るのか。 それも良かろう。俺にとってアンナと一緒にいた時が一瞬の光だった。 今、アンナのいないこの世にいても、ただ虚しいだけだ。
頂上に着いたら、北方向に延びる尾根を縦走する。縦走の途中、確か「剣が峰」だったと思う。 尖った峰がある。そこから思いきり崖下に飛び込ぶ。 それでお仕舞いだ。お金はタクシーの運ちゃんに全てやれば良かったな…
ビーズはぼそぼそと喋りながら、頂上に向かう伽羅木の道を歩んだ。 頂上までまだかなりの距離がある。西から寒風が吹き上げていた。風が背の低い伽羅木に当たって唸りを上げた。
「ビーズ、ビーズ」と呼んでいる。悲しそうなアンナの声だった。
暗い空もうなり声をあげていた。戦死したユーラ、サラーム、ヨシフたちの声だった。
「ビーズ、ビーズ」と唸る。冷たい風に誘われて涙が頬を伝った。 ビーズは暫くの間、頭をうな垂れていたが、ようやく思い切ったように涙を拭くと、 唸る風に顔を向け、「君たちを無意味に死なせた。君たちだけでない。 自分の愚かな思いつきで、死なせなくても良い人々をたくさん死なせてしまった。 取り調べの時、人を殺したことを言わなかった。アンナのことさえ一言も口にしなかった。 結果を怖れ、自分を責め、そして逃げた。何も考えまいとした。 自殺してしまえば、この気持ちから解放されると思った」
「俺はとんでもない食わせ者だった。嘘つきだった。少しでも君たちに申し訳ないことをしたと思うなら、 死ぬ前にやるべきことがあるはずだ。そうだ、せめてもの償いに、医者なら、生きて、 一人でも多くの人の命を助けることだ。人生が一瞬の光なら、その一瞬を思い切り輝かせて燃えつきればいい、、」
風が強まり、「ビーズ、ビーズ」とアンナが呼びかける。
「アンナ、待っていてくれ。俺はもう逃げない」
だらだら坂はまだ続いているが、ビーズの歩調は早くなった。
頂上に着いた。風は冷たく、胴震いは止まらないが、心は熱かった。 周囲の山々がだんだんと青黒い輪郭を現してきた。 眼下の雲海はビーズの心をパミールの高原に瞬間移動させた。彼は残った水を一気に飲み乾した。

山を降りたビーズは、ホテルで一日休んで大阪に向かった。
大阪では、自分はゴミの一粒にしかないことを痛感した。 こんなに多くの人々が不機嫌な顔で出たり入ったりして生活している。白ありの蟻塚を連想した。
いや、ここはそれ以下かもしれない。お互いが敵でも味方でもない。ただ、互いに目障りな存在に過ぎない。 熱い涙も、心からの笑い声も聞こえない。
生きている実感のない世界だ。
人の匂いが恋しくて、大阪の通天閣近くの下町でトイレ共用の安ホテルを見つけ、そこを根城にした。 ロシア語会話の本やテープを買い込み、公園のベンチで缶コーヒーを飲みながら、 心の中のアンナを相手に会話の勉強を続けた。

ある日、新聞広告で「シルクロード一週間の旅」を見つけた。
旅行会社にパスポートとビザ用写真を渡し、お金を払った。一ヶ月ちょっと待たされた。
この間に、大阪の道修町に行き医薬品や医療器を買いあさり、 日本橋の外れの電器屋で赤外線(暗視)望遠鏡を買い、口髭を蓄えた。
日本では赤外線望遠鏡は夜間の「覗き見」が主用途らしく、 店にはいかがわしい雰囲気が漂っていた。これを買うにはかなりの勇気を要した。

ようやく出発の時が来た。春先、シーズンオフのツアーだった。
韓国ソウル経由でウズベクの首都タシケントに入った。 スーツケース一杯に積め込んだ医薬品はタシケント税関で引っ掛かる可能性がある。 袖の下(100ドル札)をいつでも手渡せるよう用意していたが、団体旅行のおかげで殆どチェックも受けずに入国出来た。
ツアー客全員はタシケントで一泊し、翌日からサマルカンドやブハラなど名所旧跡を廻ることになっていた。

ビーズは二日目のサマルカンドのホテルから大きなリュックサックを持って抜け出し、 タクシーを拾ってタジクとの国境近くの小さな町まで走らせた。町の中でバザール(青空市場)を探した。
そこで安物のサングラス、帽子、ジャンパーにズボン、セーター、 毛布、それに雌雄の馬と食料、馬の餌も買った。かなりの大荷物になった。
雄馬はロミオ、雌馬はジュリエットと名付けた。ジュリエットはおとなしく、 従順そうだったので、彼女に荷物を担がせることにした。馬を買うついでに、 パミール高原・ブルガへの道を尋ねた。 「南のアムダリア川沿いに東に進めばいいと思うが、安全な近道を教えてくれないか」
馬の売人はビーズを人気のない場所に連れて行き、「ブルガに行くなら、護身用にピストルを買え。 弾丸1ケースつきで100ドルだ。裏街道を教えてやるから20ドル乗せろ」という。 「言い値」を受けると馬鹿にされ、付け込まれるから、色々と「難癖」をつけた上、合計80ドルで決めた。
売人はそれでも半分以上は儲けになっているはずだ。「神のお加護を」と嬉しそうだった。
彼は棒切れで砂地にパミール・ブルガへの裏街道を描いてくれた。 ビーズが思っていた南ルートではなく、北ルートだった。 地面に描いた地図を指差しながら、このあたりはイスラム・スンニ派が多いから外国人には危険だとか、 ここにはロシア軍基地があるから、ここを避けてこっちの山道に入ったほうがいいとか、地方勢力の動向まで教えてくれた。
例えば、タジク南部のクロブ州はサンガク・サファロフが仕切っているから、 ここは避けた方がいいという。サファロフとは、ソ連時代に殺人、強盗の罪で20年以上監獄に入っていた男だそうだ。 今は体制派の重鎮となって「人民戦線」という武装集団を組織している。 「こういう手合いは軍隊より残虐で凶暴だから、とにかくクロブ州は迂回したほうがいい」という。
思ったよりも複雑で距離があることに気付き、食料をさらに買い足した。馬の売人にあと20ドル足してやった。
売人は喜び、別れ際に「雪のなかでは役にたつぜ」と中国製の白いビニール製のマントをビーズにプレゼントしてくれた。 実際、これは日中に雪の中で身を隠すのに多いに役立った。
重い荷物は、ロミオにも担がせることにした。アンナと旅したときは夢心地だったが、 今は一人と二頭で内戦の辺境に忍び込む。しかし、白銀の山々は絶景だった。
それはアルプスの山より遠く、深く、荒々しかった。
この時期、寒さと積雪のためロシア軍も政府軍も陣地を固め、大部隊の移動や地上戦は手控えている。 陣固めは主に対人地雷に頼っている。
地雷には、新式と旧式がある。
新式にはタイマーが内臓されており、一定の時期が来ると爆発しなくなる。旧式はいつまでも、爆発の危険が消えない。
ここで使われている地雷はすべて安価な旧式だ。旧式の中で最もたちの悪いのは人間の体重にのみ反応する対人地雷だ。 これはローラー式の地雷除去車では爆破処理が出来ない。現在、世界中で一般人の殺傷事故を起こしているのも多くはこの種の旧式の対人地雷だ。

春先、極寒と積雪で身動きが取れないロシア軍は攻撃ヘリやジェット機による「空撃」に重点を置いている。
ビーズが木陰や物陰にひそんでいると、ヘリの爆音が峰の向こうからタンタンタンとこだまして来ることがある。 普通の機関銃は「パリバリバリ」という射撃音を立てるが、攻撃ヘリの機関砲は「ドドドッ」と凄まじい音を立てる。
遠くからヘリのエンジン音を聞くと、ビーズの瞼の裏にユーラやサラームが粉微塵にされた光景がフラッシュバックしてくる。 もう二度と見たくない。
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