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ビーズ
(パミールのはてに)
 

囲炉裏(いろり)の上に魚の形をした吊り具があり、その下に黒い鉄鍋がぶら下がっていた。 わけの分からない食べ物が中に入っていた。麦と山菜と鶏肉のようだった。
「坊さんも鶏肉を食うのか」
「人間は生まれながらにして罪深きものよ。食わねば生きていけんでのう。 お前も食うがええ。お前はこのあたりの人間ではなさそうじゃが、こげなところで何をしておる」
「夏休みで、津山まで自転車旅行をしとる」
「そうか、腹いっぱい食うたら、離れで寝るがええ。ところで、お前は面白い顔をしとる。わしは少し人の相を見るでのう。 ほう、お前はこれからも随分、苦労するようじゃな。若いうちは人に恵まれんの。遠くに人が待つ。 わしは人の相を見て、説教をするのが趣味での。飯を食わせたついでに説教をたれよう」
「坊さん、説教を聞いてあげる。でもその前に聞いておきたい。 人間はどこから来て、どこに行く。自分はなぜ、この自分なのか」
「それだけか。それじゃ、わしが説教をたれよう。どこからも来ず、どこへも往かぬ。
人は無に生まれて、一瞬を光り、また無に戻る。一瞬の光の間をがむしゃらに生きなされ」
「無から無に戻るって。坊さんの言うこと証明できるか。それに、なんで俺が俺なんだ」
「証明でけんから、人生は面白い。それに、なんでお前がお前か?それこそ神のみぞ知るじゃ。 お前は犬にも猫にも魚にもなり得たわけじゃけ、少なくとも今回、たまたま人間になったことを喜ばにゃならんぞ。 人間という最高の箱物をもらったんじゃけ、中味もそれに見合ったものにせにゃならん。 お前はまだまだお前になりきっとらん。自分を閉ざさず、多いに生きなされ。 もがいて、もがいて、もがきまくって生きるんじゃ。そうしたら、生きることもまんざらじゃないと思えるようになる。 そのとき、やっとお前がお前になるんじゃけ」
「よう分らんけど、おもろい。ところで、坊さんは坊さんになりたくて、坊さんになったんか」
「そうさな。昔、わしは極道じゃった。子供が死んで、女房が死んだ。 みな、わしのせいじゃ。それからは、夜は眠れず、つらい毎日での。息を吸うのも厭になったほどじゃ。
わしはいつも死んだ女房に、『三途の川の向うに極楽浄土や天国があっても、そこには往くなよ。 幽霊でも、お化けでもいい。わしが死ぬまでわしの傍におってくれ。つらい。お願いだ』と頼んだもんじゃ。 そんな或るとき、子供を抱いた女房が夢枕に出て来おってな、『あんた、この子のことは忘れたのかい。相変わらずだね。 まあ、いいさ。そばにおってあげるよ。でもね、少しは人の悲しみを知って、人のために生きることも考えるんよ』とこきやがったわ。 いや、息子が『お父ちゃん』って、わしの胸に飛び込んできおった時にや、わしはもう何も言えず、わんわん泣いたね。 わしはこんなかわいい子を見捨ててしまったんじゃ。心が張り裂けそうになった。目覚めてからもわんわん泣きつづけた。 まあ、わしにもちらっと仏の心が芽生えたんかいのう。 それで、あまり考えもせずに、ここの坊さんに頼み込んで墓守りになったわけじゃが。 その坊さんも死んでしまったから、今はここの墓守りと坊さんを兼ねとる。 まあ、自給自足のような生活じゃが、なんとか生きとる。 坊さんになりとうて坊さんになったわけじゃないし、心は今でもふらついとる。お経を読むことだけは覚えたがの」

ビーズはこの坊さんの説教とやらに夜遅くまで付き合わされた。
囲炉裏火(いろりび)のせいで、坊さんの影が壁に当たって揺れ動き、 踊っているように見えて気味が悪かった。山里の夜は冷え冷えとしていた。
「人生は無から無までの一瞬。もがきまくって生きなされ、お前がお前になるでな」と いう言葉がビーズの心に残った。

出発してから3日目に岡山県側の蒜山高原に出た。
ビーズは驚いた。こんな雄大な高原が日本にあったのか。
何もかもスケールが大きい。緑の草原や森がはるかに続いている。
明峰大山(だいせん)のうしろ姿がはるかに見える。予期せぬ絶景だった。
いつか馬に乗って、ここを駆けめぐりたいと思った。
裕子とふたりで馬を走らせている姿を思い浮かべた。ビーズの顔がほころんでいた。
そのせいか、途中、道に迷った。坊さんが別れ際にくれた干し芋がビーズを救ってくれた。 この干し芋がなかったら、きっと津山を見る前に餓死していただろう。
4日目にしてようやく津山の城跡が見えてきた。津山市街は坂下の盆地だった。
自転車に乗り、城下町に向かう急坂を気持ちよく突っ走った。 が、勢いあまって道路の側壁に激突してしまった。
荷物は散乱し、前輪が曲がってしまった。走行不能の自転車を引きながら、津山の城下に入った。 お坊さんが言った「これからも、随分苦労するようじゃが」が的中したと思った。

公衆電話の電話帳で「原」を探した。「原」という名前は20もあった。「原」の多い町だ。
「去年、こちらに引越して来られた原さんですか」と質問を繰り返し、 10番目あたりで、ようやく原恵一という人がそれであることを見つけた。母親らしい人が出て来た。
「あのう、裕子さんはいらっしゃいませんか」
「裕子はテニスの合宿で岡山に行ってますが、どちら様でしょう」
「坂本聡です。こちらに来たついでにと思い.. 」
「ああ、あの坂本君。裕子はいないけど、お寄りになりませんか」
「いえ、結構です。ついちょっと用事で来ただけですから.. 」
ビーズは「あの坂本君」という言い方に少し引っ掛かるものを感じたが、 そんなことを裕子の母と議論する余裕などなかった。汗びっしょり、緊張で喉はからからだった。
「折角だったのに残念でしたわね。今度いらっしゃるときは前以て連絡いただければ」
「はあ、済みません。それでは、どうも」と、歯切れ悪く受話器を置いた。
裕子はテニスの合宿か。その姿を想像すると、あまりにもまばゆ過ぎた。
「もう彼女は自分とは別の世界で呼吸しているのだな」
ビーズはみじめな寂しさとともに津山の駅を山陰に向かった。
汽車のなかで駅弁を食べながら、自転車を壊してしまったこと、 お金をたくさん使ってしまったことを心のなかで親に謝り、涙をこぼした。

その後、孤独な高校生活を送った。
大学はずっと昔から医学部に入るものと決めていた。
親の負担を考えて、近くの国立大学の医学部にした。皆、東京、京都、大阪の大学を志望したが、 ビーズにとっては特に都会に出る理由がなかった。
駅弁大学と言われたが、中にはずば抜けて頭の良い者もいた。
ビーズの成績は良かったが、級友とは馴染めなかった。 当時は医学も電子化の走りの時代で皆、電子工学的な医学に熱中した。
ビーズは無医村の医療を考えた。皆が「狭く、深く」を志向している中でビーズは「広く、手厚く」を望み、 「大学の友」という文集に「千手観音こそが我が理想」と書き込んだ。
あの坊さんが「多いに生きなされ」と言ったのは、「生きている間に少しでも意味のあることをやりなさい。 思いっきり汗をかいて自分に納得のいく生き方をしなさい。 どうせ死ねばすべてが無に戻るのだ」ということだと自分なりに解釈した。
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医学は好きだった。医学部では高校時代には想像もできなかったほどの膨大な記憶量を求められる。 ちょっと大げさに聞こえるかもしれないが、毎日分厚い本一冊を読んで、 その全てを頭の中にしまい込まねばならないぐらいの凄まじさだった。 しかし、すべてが合理的で(勿論、例外もあるが)、常に「なぜ」に対する回答があった。
ひとりぼっちのビーズにとって「なぜ」を突き詰めて考えることは興味深く、胸が躍る思いだった。 ただ、「なぜ」が広がり過ぎて収拾がつかなくなることも多々あった。
当時は学生運動が盛んな時代だったが、彼はその流れの中に入ることが出来なかった。
学生運動を否定するというわけではなく、人の中に入っていくことが出来ないだけだった。
ただ、学生活動家たちの「変身」には戸惑った。 明日にも日本を土台から引っくり返すような檄を飛ばしていた連中が、 卒業が近くなると分別のある社会人になってしまった。 学生運動に参加せず、何もしなかった自分だけが、体制に対する精神的な反抗児のままで残ってしまった。

医学部の中でひとり、岡山県の津山K高卒の高橋という男とは親しくした。 高橋が裕子と同じ高校卒だということで親しみを感じた。勿論、だからと言って、裕子のことを聞くことはなかった。 聞く勇気も自信もなかった。

在学中に両親が死んだ。火事だった。火元は石油ストーブらしい。 あっという間に実家は焼けてしまい、両親の黒焦げ死体が見つかった。 その時、ビーズはその場にいなかったせいか、親の死に実感が涌かなかった。 火事の始末や葬式は母の兄が取り仕切ってくれた。
初めて見る伯父だった。彼は「火元だから、ご近所にそれなりの償いをしなければならない」と土地すべてを売り払い、 収支明細書を見せてくれた。懐かしい花畑も売りに出された。ビーズにはほんの僅かの遺産と天蓋孤独の身が残った。
ある日、伯父がやってきて「君の義眼は不釣合いだから、つけ替えた方が良い。 今、眼球が動く義眼もあるらしいからそれに替えてはどうか。 実は私の知り合いで、君のお見合いの相手になりそうな娘がいる。 医者の卵ならまったく申し分ない。しかし、その眼ではねえ」という。 ビーズにはその伯父がひどく下卑た男に思えて、すべて即座に断った。

落ち着いてから、一人で墓参りをした。お経など知らないので、立ったまま墓石をじっと見つめていた。そうしていたら、そこに、にこにこ微笑んでいる父母が見えてきた。 目の錯覚とは思うが。それに、冷えた心がなぜか温まってくるのさえ感じられた。
ビーズは墓石に「俺はどこからこの世にやって来て、どこに行くんだろう」と尋ねた。
答えはなかった。あの坊さんが正しいように思えた。
「どこからも来ず、どこへも往かぬ。無から生まれ、一瞬光り、無にもどる、か」

それから、よく言えば孤軍奮闘、実際は孤独と貧窮の中(解剖材料の小動物さえ重要な蛋白源だった) 寝る間も惜しんで必死に頑張った。医学部は旧態依然たる身分制度と凄まじい激務の中にあった。
戦後、長らく「インターン」と呼ばれる臨床研修制度があった。 これは大学卒業後、一年間の実地研修をした後に医師国家試験の受験資格を得られるというものだった。 つまり、研修の期間中は学生でも医師でもなく、不安定な身分での診療を強いられた。 また給与の保障も殆んどなかった。インターンのまま医師免許を取得できない「インターン崩れ」も多かった。
1967年、全国でインターン制度廃止を叫ぶ医師国試阻止闘争が起こり、各大学の医学部は大荒れに荒れた。 結果、1968年に医師法が改正され、インターン制度は廃止された。
こういう状況の中、ビーズは医師免許を取得し、過酷な臨床研修も終えた。

研修終了後、わけもなく裕子に電話がしたくなって津山に電話を入れたが、津山には原恵一という人はいなかった。 あれから10年の月日が流れた。原家はどこかに移転したのだろう。
ビーズは津山K高卒の高橋に電話を入れ、同窓会名簿で原裕子のその後を調べてもらった。 彼女は結婚して、伊藤という姓になっている。住所は京都の近くの亀岡市夕陽丘…
ビーズは「これで過去は終わった」と思った。

医大の主任教授は自分の息のかかった病院に医師を配る。 出来の良い者、毛並みの良い者、自分に従順な者を、病院の格の高い順から卸して行く。
教授はビーズに隣県の市民病院を紹介してくれた。「ここは将来有望な拠点となるから無理押しにでもウチの者を押し込んでおきたい。 君はここに行ってくれんか。いずれはウチの大学病院に帰れるようにするから」
ウチとは我が家という意味だが、ここでは我が大学、我が学閥、我が一門という意味になる。 ビーズの父親がこの教授の遠縁に当たるらしく、彼はビーズをウチの人間と考えていた。
一方、ビーズはこのような門閥的な陣取り合戦には生理的な嫌悪感さえ感じ、目を下に向けたまま断った。 教授は「こんなに従順に見える学生が」と意外に思ったが、彼の脳はビーズを反体制・異端者と認識した。 これで爪弾きは確定した。ドロップアウトだ。
だが、当時は(今でもそうだが)医者が絶対的に不足していた時代だったから、 ドロップアウトはドロップアウトなりに職場を見つけることが出来た。
日本海側の漁港町の開業医がビーズを受け入れてくれた。 田中医院という、看板がなければ、汚い駄菓子屋と間違えるほどの代物(しろもの)だった。
田中先生は70歳に近いお爺さんだったが、患者達から慕われていた。 患者の話を根気よく聞き、心のなかの泥を吐かせたうえで、運動と魚菜、陽気暮らしを勧めた。
「根気が肝心」が口癖だった。薬は気休め程度にしか出さなかった。ビーズは「少し俺の親父に似ているな」と思った。 院長室のなかは書類や医療器具が乱雑に散らかっていた。
田中先生はビーズが仕事を始めると、待ってましたとばかり魚釣りに懲り始めた。
患者たちは田中先生がいないのを不満がった。
「病気のことはお前よりわしの方がよう知っとる。 わしは田中先生の治療を受けに来とるんじゃ、青二才のお前なんぞにわしの病気が分かってたまるか」と言わんばかりだった。
ビーズは青二才ながら、患者を診察し、必要な処置をした。機械の使い方も得意だった。
彼がやれば、注射も痛くない。胃カメラを呑んでもまったく苦しくないという(ビーズ本人は、こんなことは自分の能力には 関係のないことだと思ったが)評判も取った。
田中先生のやり方には始めのうちは抵抗も感じたが、 慣れてくると「これでいい」と思うようになった。ただ、決して儲かる商売ではなかった。 一人に当てる時間が長かったし、自転車に乗って往診もし、点数の多い投薬は避けた。 彼は患者たちの経済状態をよく知っていた。
口やかましい患者たちもビーズをしだいに受け入れてくれるようになり「若先生」と呼ぶようになった。 若先生に対して田中先生は「おお先生」と呼ばれた。「おお先生」が病院に出ていると患者達は嬉々としていた。 ビーズも「医者たるもの、こうでなくては」と思うようになった。
「おお先生」は終戦後、ソ連抑留を経験していた。復員してから大学の医学部に入り直して医者になった。 抑留時代の事はあまり語りたがらない。
だが、酒が入ると、ぽろっと当時の話がでることもある。 「水が欲しいときは『ワダー・ナーダ』というんだな。わりと分りやすいじゃろ。 そうだ、そうだは『ダ・ダ・ダ』だ。『ンダ、ンダ』と言ってもええ。腹が減ってな、わしらは何でも食べた。 木の根も、ソ連兵の食べ残した魚の骨も食べた。骨を食べた者は生き残った。 時々、よほど運が良いと森の中で茸(きのこ)を見つけることもあった。 勿論、生で齧りつく。毒茸でも我慢ならず食らいつく。茸はちょうど地雷原のようなもんだったな。 ちょっと間違えれば命取りだ。でも、そんなことはまだ序の口でな、、生き残るためには心も売った。 辛かった。わしはせめてもの罪滅ぼしのために医者になることにしたんだがな」という。
機嫌が良いと「わしの趣味だが」と、ビーズに指圧を教えてくれた。 その効果は趣味の領域を超えていた。「薬も暖もないシベリアでは多くの抑留者が指圧で命を長らえたな」という。
ビーズはそれまで按摩や指圧など見向きもしなかったが「なるほど、 何もなくても最後は手を使って病を治し、人を救うという手があるのか」と、 それからは謙虚に指圧を学ぶことにした。
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ビーズは港の大岸壁に木材を運んで来る船がソ連船(ロシア船)だと知って興味を持つようになった。 昔からロシア民謡が好きだった。心に響く愁いがあった。それは山陰の空に似ていた。
木材船から降りて、港町を歩いているロシア人女性たちの言葉を注意深く聞いていると、 それは流麗で、賛美歌のように聞こえた。何とかロシア語を征服してみたいと思うようになった。
ロシア語を齧(かじ)り始めて、驚いた。
例えば、英語の One という言葉が次に来る名詞の性(男性、女性、中性)や、 数(単数、複数)、文法的な位置(主格、生格、与格、、など)によって24通りにも変化する。 名詞さえ12変化する。日本語では名詞は「体言」といって決して変化しない。
さらに、一つの動詞に二つの形態(完了体、不完了体)があり、それぞれに過去、現在があり、 それぞれが性や数によって変化する。これはもう「喋る言葉」ではないと思った。
しかし、ビーズはその難解がゆえに挑戦してみたくなった。 同時にロシア人の思考パターンも研究してみたいと思った。 なぜこんなに複雑な文法を瞬時に操れるのだろうか。 答えは暫くして分った。答えは理屈抜きの「慣れ」だった。
考えてみれば、日本語だって難解な言葉だ。例えば「行か・ねばならなく・なり・そうだ」という文は、 よく見ればすべて後ろのパーツが前のパーツの形を決めている。
「行く」が次に来る「ねばならない」によって「行か」になり、 「ねばならない」が次の「なる」によって「ねばならなく」になり、 「なる」が次の「そうだ」によって「なり」となる。
それゆえ、日本語というものは、前以って最後まで文章を作っておいてからでないと喋れないはずだが、 日本人はそんなことお構いなしに日本語をぺらぺら喋る。 やはり言語においては「慣れ」が肝腎なのだ。と、ビーズは自分なりに合点して、少し自信を失った。
「慣れ」のためには場を踏まねばならないが、その可能性は殆んどない。

ビーズにお見合い相手を紹介してくれるものもいた。
実際にお見合いをしてみて、これほど疲れるものはないと思った。
一瞥で人を知るという超能力が求められる。逆に、一瞬で自分の長所を最大限アピールし全ての短所を押し隠す。 ビーズにはそんな自信はなかった。
案の定、殆んど全て、向うから「残念ですが」という回答があった。
ビーズも断られてほっとした。その人たちには特別な感情が湧いて来なかった。 同時に、自分が裕子の面影を今でも追い続けていることに気づき、少なからぬショックを覚えた。
無意識のうちに「裕子」を規準に良し悪しを決めている自分に。
ビーズは「裕子は美しく、やさしく、異性から見て好感度は抜群。俺は義眼、異性に対する好感度は殆んど零。 俺のような男がもてるわけがない。でも、しかしだ。それは時と場合によって変わる。 それに、相手によってもだ。もしかしたら、裕子は、本当は俺のことを好いていてくれたかもしれない。 美人にはよくあることだが、普通の美男子よりも、 俺のような影のある男のほうが好きだったかもしれない... 」と呟きつつ、溜め息をついた。
「その可能性も殆んどないだろうな」

ロシア語が幾分か上達すると、ビーズはどうしても本物のロシア人との会話がしてみたくなった。 町の目抜き通りをソ連船の乗り組み員が歩いていた。前以って何度も練習したことを口に出してみた。
「こんにちは、私はこの町の医者です。趣味でロシア語を勉強しています。 何でもいいですから、質問してください」
相手は警戒の顔で「ZXZXZX.... 」と喋った。
ビーズにはさっぱり分からなかった。
知る限りの言葉を駆使して、「あなたの名前は何ですか。どこに住んでいますか。職業は.. 」と喋った。
相手は名前だけ「ビクトル」と言ったが、あとは警戒からか「ZWZWZW... 」と ビーズには理解出来ない言葉を残して、立ち去ってしまった。
ビーズは懲りず、暇を見つけてはロシア語の他流試合を試みた。
彼は医学と語学の違いをこう思った。
医学には間違いが許されない。すべてが正解でなければならない。 ところが語学には速度という要素がある。少々の間違いを恐れず、話のポイントを押さえることだ。 どんどん流れてくる音声記号をその速度に負けず、聞き取ることだ。厄介なものを抱え込んでしまった。
単語の多さにも感心した。休みには「おお先生」と魚釣りをしながら、単語を貪った。
小型のテープレコーダでロシア語会話のヒアリングも繰り返した。
あとで聞いたことだが、日本の公安調査局がビーズをマークし、尾行さえつけていたという。 もしかしたら、電話も盗聴されていたかもしれない。ご苦労なことだ。

ある晩、海運会社のスタッフがロシア人(当時はソ連人)女性を連れて来た。
ふたりのロシア人船員も同行していた。海運会社スタッフは「大宮と申します」と名刺を差し出してきた。 大宮の話によれば、船医の見立てでは盲腸(虫垂炎)だという。 残念ながら本船では器材と薬剤が不足しているので、こちらで応急処置願えないかという。
患者の名はマリア、24歳の船コックだった。ビーズは患者を診ながら、 こんな美人でもコックをするのかと変に感心した。マリアは体を前に丸めて、声も出さず、お腹を押さえている。 ビーズは重病患者に対して良からぬ「値踏み」をしたことを恥じた。
症状を尋ねると、激しい腹痛と吐き気、高熱があるという。 触診と白血球、超音波の検査結果は確かに虫垂炎だった。 「ボーリナ?」と尋ねたら、マリアはロシア語が嬉しかったのか、笑顔で「ダ、ボーリナ」と答えた。 「痛いかですか?」「はい、痛いです」という簡単な会話だったが、 ビーズにとっては生まれて初めての記念すべきロシア語会話だった。
大宮は「ソ連船には盲腸のための抗生剤がないので、出来れば、それを処方してくれませんか。 ここで時間を取られると色々と問題があってね」という。
ビーズは「この状態では薬で炎症を散らすことは正解ではない」と、大宮の提案を撥ねつけ、 すぐに手術を始めることにした。マリアを診察台のうえに寝かせ、局部麻酔をした。 大理石のように綺麗な肌だった。これを切るのは無残と思ったが、仕方のないことだった。 出来るだけ小さな穴を開けて虫垂を切除した。 虫垂炎は予想以上に大きかった。このままでは腹膜炎を併発させるところだった。
手術後、安定剤を打って寝かせつけた。体温、脈拍、血圧を測り、点滴も始めた。
朝早く大宮とロシア人船員二人がやって来て、「本船は今日の午前10時の出港だから、今からマリアを引き取る。 治療費の請求は会社あてに出してくれ」という。
「とんでもない。今暫しは患者を動かすことは出来ない。さっき切ったばかりではないか。 術後の経過を見なければならない。動かしたら縫合部分から出血する。 抜糸にも時間が必要だ。癒着の危険もある。それにソ連船では薬剤投与もままならぬではないのか」ビーズは怒った。
海運会社の大宮とロシア人船員は田中医院の待合室で顔を突き合わせて話し合い、 夫々が会社と船に電話をし始めた。その結果、本船出港を翌朝10時まで延ばすことになった。 大宮は「会社にとって大変な出費だ」と苦虫を噛み潰したような顔をしていた。
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