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チェチェン挽歌
二十二
なるほど、大統領府は国内大手企業の経営者を例の「国家財産横領」の容疑とかで摘発し、 排除し、骨抜きのうえ国家統制下におくつもりのようだ。
やはり、例の「国家社会主義」が匂ってくる。と言っても、純粋な国営化ではなく、 以前のソ連のような社会主義体制の復活でもない。現実は元KGB(国家保安委員会)の主要メンバーが現政権の枢要の地位を占め、 自らの息のかかった者を有力企業の経営陣に送り込み、あらゆる分野で国家的管理を強めるという図式だ。
ちょっと逸れるが、ナチとはドイツの国家主義労働党(Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei)の略称である。 ナチズムは病気で死にそうな国を建て直すためには効果覿面だが、致命的な副作用を持つ。
話をもとに戻そう。二番手の商社がこの国でうまく商売をするつもりなら彼らに乗るべきかもしれない。 但し、小生本人は政商など絶対やりたくない。(自分の柄でない)ただ当面は乗っておく必要がある。
エクスキューズ・アス(済みませんが、すこし時間を拝借します)と断って支店長に日本語で簡単に現状と作戦を説明した。 支店長は非常に呑み込みの早い人だから、即、携帯電話を取りだし、東京本社の担当本部長を呼び出した。
先方の要求内容をかいつまんで説明のうえ「我が社はロシア政府には何十年もお世話になっている。 もしロシア政府の直々の要請を拒絶したら今後の商売は全社的に難しくなる。 HKKの夢崎工場で既に製造に掛かっている他国むけのドリルパイプをこちらにスイッチして欲しい。 まずは最初の数ロットだけでいい。他国の客先には納期遅延のペナルティを払えばよい。 あとでアンさんが現地に出向き弁明してくれる」と強引に東京本社に超短納期を了承させてくれた。 さすがだ。小生、前以ってドリルパイプの鉄源を押さえておくよう頼んでおいたが、これほどの短納期は想定外だった。
支店長は経済部長に初納期2ヶ月OKを伝えた。部長は我々に握手を求め、 「有難う。早速支払いを手配する。細目は大統領府の渉外部と詰めてくれ」という。 支店長「アンさんやったね」と人なつこい目でウインクする。
雰囲気が和んだところを見計らって紅茶を啜りながら小生、 経済部長に「大口径のチェチェン迂回パイプラインを造るということは、 つまることろチェチェンはこれからもずっとロシア内のブラックボックスというか、 慢性的な危険地帯と見做して、迂回パイプラインを恒久的な主要輸送路と位置づける、ということですね」と尋ねた。
半眼で今までの会話を興味なさそうに聞いていた次長のタラカノフが、ちらりと鋭い視線をこちらに向けて 「それはあり得ない。貴方はチェチェンにご興味をお持ちのようだから、茶飲み話しにご説明しよう。 現在チェチェンではロシア軍はゲリラ戦に悩まされている。軍に予想以上の死傷者が出ている。 一般農民や難民までが夜になるとゲリラとなる。闇討ちや待ち伏せに加えて、爆弾を抱いてロシア軍兵舎や軍用トラックに カミカゼ特攻するものも増えてきた。イスラム原理主義者だ。
特に女の特攻隊が怖い。男以上に狂信的で、親兄弟の恨みからか閉心症状を起こしている。 一方、現状、敵には全体をまとめる人材がいない。ロシアは、現地の顔役を使って 台風の芽(チェチェン人のなかで統率力のある者)をつぶしている。敵を分断しておくことが最善策だからね。 但しいつまでも彼らの分裂状態は続かないだろう」
経済部長は煙たそうな顔をしているが、タラカノフはそれを無視して話を続ける。
「チェチェン人があそこにいる限り問題は解決しない。日本人は非常に頭が良い。 アイヌ人を絶滅させた。これに倣うのがもっとも賢明だ」という。
小生、この男が「アイノ」と発音するので、始めは何を言っているのか分からなかったが 「アイヌ」と言っていることが分かって唖然とした。
狂気だ。こんな男がロシアの大統領府でチェチェンのジェノサイドを策謀しているのかと思うと寒気がした。
彼は続けて「私はロシア人失業者、年金生活者、あぶれ者に優遇特権を与えて、どんどん入植させ、 チェチェン人の追い出しを図るべきだと考えている。彼らを完全に駆除したあとはチェチェンは有力な石油生産基地となり、 輸送の大動脈ともなる。少なくとも、純粋なロシア人が2/3を占めるようになればこっちのものだ。
それまでの間が問題だ。ゲリラを徹底的に駆除するまではチェチェンルート(チェチェン内を走るパイプライン)は 使い物にならない。とは言え、今の段階で石油の輸送路を確実にキープしておかねば、 カスピ海と中央アジアの石油がトルコ経由で欧米に取られてしまう。いや、既にかなり侵食されている、、 要は、迂回パイプラインは当面の策だが、絶対的急務ということだ。 我々はロシアがロシアである為の策を案じている」という。
支店長も始めはにこにこしてこの男の話しを聞いていたが、嫌気がさしたようだ。
「アンさん早々に切り上げよう」
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二十三
最初、一泊しただけでその後、姿を消していたララから電話がかかってきた。
会いたいという。こちらも会う用があったからOKした。ただし喫茶店などは目立ってしようがないから、 車でジバというスーパーの駐車場に来るよう告げたが「あなたのアパートの鍵を持っているから勝手にお邪魔する」という。 あれ、いつの間に。
ララは夜の12時過ぎにこっそり入ってきた。
小生、眠たい眼をこすりながら、これから言う事をチムールに伝えてくれと頼んだ。
「大統領府からパイプの新規契約の支払いが近々なされる。当方が契約書を2通つくる。 最初の1通は日露間の正規の契約書。この契約金額だけでは無償提供分をカバー出来ない。 そこで以前の貴方との約束通り2通目をつくるわけだが、これは我が本社あての追加契約書となり、 ペトロスには出さない。追加契約書のコピーをララに託す。正規の契約の支払いがなされしだい、 チムールは追加契約分をバイヤー名で第三国の偽口座から我が本社あて振込みされたい。 初納期は支払い後2ヶ月。
現在、製造ラインに乗っている他社向けの素管を我々のビクトル・スペックに合わせて最終仕上げする。 尚、大統領府の経済部次長タラカノフをマークする事。彼はチェチェン・ジェノサイド推進者の一人と思える。 以上だ。ララ、ポイントは理解できたかな」
ララは伝言内容を(我がロシア語の発音の癖も含めて)一言一句違えず復唱した。
さすがだ。そう言えば、グプキナを出ていると言っていたが、、ええつ、待てよ。
グプキナと言えば、あの有名なモスクワの石油工科大ではないか。 チムールが自慢していたグロズヌイ石油工科大よりもはるかにランクが上だ。お見逸れした。
「ララ、それで、そちらの用とは」
「伝言があれば伝言を聞いて、あとは私のベッドで寝ること」
ええっ、いつの間に我が神聖なダブルベッドがララの独占物になってしまったのだろう。 ま、仕方ない。とにかく、短い夜が明けて、また2段ベッドの朝が来た。太陽が眩しい。
食卓のうえにコンチネンタル風のブレックファストが置いてあった。ララがおいて行ったようだ。 侘びしいモスクワ単身者にはぐっと来た。
オフィスに出るとさっそく大統領府の渉外部課長から「2〜3日中に支払いを実行する。 貴社スタンダードの契約書にサインをつけて送ってくれ」との電話あり。
普通、契約書の細目を長々と打合せ、サインするまで4〜5日はかかるものだが、電話一本とはさすがに大統領府だ。
話はまた逸れるが、いつも契約が取れたときは凄く嬉しい。だが、同時に虚脱感も味わう。 ちょうどハンターが獲物を仕とめた後は、あれほど執念を燃やして追いかけた獲物に興味を失ってしまうのと似ている。 男は大なり小なり生まれながらのハンターだから動くものに興味を示し、 それを捕まえてしまうと興味を失う。そういう風に大脳はプログラムされている。 浮気は、だから男の天性なのだろう。(などと世界の男を弁護しつつ)黙々と契約書を作成し、サインをつけて送り出した。
あとは数ヶ月後にビッグクレームが来て、本件責任者として会社を追われるという筋書きか。 そういう気持ちでモスクワの風景を見ると、見るものすべてが懐かしく思えた。
いつもより虚脱感が激しい。
祭りのドンチャン騒ぎの中からいきなり誰もいない森とした場所に迷い出た時のような寂しい気持ちにもなる。 ただ、これからはもう自分のような部外者の出る幕ではないだろうとも思う。 一方でそんなことを考える自分がどうかしているとも思うが..
仕事を終えて夕刻、アパートに帰る。
テレビをつけた。国営放送は(どこでもそうだろうが)政府べったりだから、見ていて気分が悪い。 民放に切り替えた。まだ民放健在の時代だ。
ロシア最大のマスコミグループ「メデイアモスト」の総帥グシンスキーが、 検察により起訴された自らの詐欺容疑について「公開討論会」を行なっていた。 「国家財産横領」と言えば一般大衆に受けがよく、政府にとって都合のいい事件だ。 今、一般大衆は「ロシア維新」に裏切られてムシャクシャしている。 グシンスキー財閥に怒りの矛先を向けるも無理からぬことだった。
それに対し、グシンスキーは「自分ひとりの問題ではない。我が国が今後、どこに向かって行くのかが問題だ。 言論抑圧を陰で操っているのは大統領その人だ」と断じる。 加えて「近々大統領は石油財閥ルクオイル、ユコスにも検察の手を廻すだろう」と言っていた。 かれはユダヤ人新興財閥の一人。地位を譲らず、そして逮捕された。
グシンスキーの逮捕に抗議して、(モスクワ訪問を予定していた) アメリカの投資家グループは その寸前になってこれを取り止め、対ロシア投資に関する交渉を一方的に打ち切った。
ロシアは一方でチェチェンの分離独立の封じ込め、他方で財閥解体による権力の集中という二つの課題を同時に抱えている。
政治と経済における権力の集中はある意味では最も合理的、効率的に思える。しかしそれは必ず悲劇的な破綻に終わる。人の歴史が教えている。
何か疲れを感じて、寒い雨のなかを近くの公園に散歩に出かけた。白夜と雨のためいつまでも薄暗い公園をしばし歩いた。 白と黒のツートンカラーのおしゃれな烏が戯れていた。この物悲しさは日本に帰ったら、もう味わうことが出来ないだろう。
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二十四
濡れた服をはたきながら我が家のドアを開けた。
電気がついている。テーブルのうえに紅茶とケーキ、青紫色のライラックも置いてある。 ララがまた来たのかなと頬がほころぶ。今までの憂鬱はどこかに行ってしまった。 男とはかなり単純な動物だと今更ながら痛感した。
でも、もう一人いる。青い目、金髪のチャーミングな娘。ララほど強烈な印象はないが、おっとりとしていて可愛い。齢は20歳そこそこだろう。
ララが「驚かせてご免なさい。来週からあなたの秘書となるナタリです」という。
なるほど、大統領府のタラカノフ対策か。さすがに手回しがいい。
ナタリは自己紹介をして履歴書を小生に渡すと、ちらっとララに目配せをして帰ってしまった。なかなか感じのいい娘だ。
ナタリが帰ったあとララはやさしい顔をして大きな観葉植物を鉢から引き抜いた。
彼女はナタリを秘書にすることにしても、観葉植物を引き抜くことにしても、 小生が絶対に異議を申したてないと決めてしまっているようだ。 魔法使いのばあさんとよく似た性格だ。よほど「偉く」生まれついたものだろう。
今更しようがないからララの好きにやらせた。引き抜いたあと、砂をきれいに払い取り、根元から「股裂き」の刑を始める。 ちょうどあのマトリョシカ人形が縦半分に分けられたように我が観葉植物も縦半分に分けられる。ああ、幸福の木が、、
(羊もこの調子でさばくのだろうと、農耕民族の子孫は寒気を感じた)
観葉植物の幹はいつの間にか中空となっており、そこにぎっしりダイヤの小石が詰められていた。 ララは同じく中空のビデオカメラ(電子部品があったと思しき場所が中空になっている) の 内部にダイヤを丁寧に仕舞い込む。そのうえにパッキングを置いて、更にそのうえに電子回路のような板状のものを何枚かボンド付けし、 最後にネジを使ってもとのビデオカメラ(ハンデイカム)に戻した。
えらく手際がよい。
ハンドバックの中から映写済みのビデオカセット2個を取り出し、 カメラとセットにして「会社の机の引き出しの中にしまっておいて欲しい」という。了解。
夜更け、我が2段ベッドに今までに感じたことのない肌触りのものが侵入してきた。
ぎょっとしたが、「ナタリに手を出したら、許さない」という。了解。
朝起きたら、もういなかった。いなくなると胸にぽっかり穴があいたような気持ちに襲われる。
ナタリは3ヶ月の見習いという事で支店長の許可を取った。 よく働き、頭が良く、みんなから好感をもって迎えられた。
ナタリが仕事を始めてから数日後に大統領府の経済部長と担当次長をレストランに招いた。 ナタリを同伴。あの陰険な顔付きの次長も顔が軟化している。ナタリも彼を見つめ、微笑む。 これでOKだ。あとはナタリに好きなように料理させればよい。
ところで金髪の娘の名前をナタリと記したが、正しくはナタリア。愛称はナターシャ。
青い目、金髪の美人でナタリと言えば、当然ロシア人の筈だが、実は彼女はチェチェン人である。 チェチェンを含むコーカサスはロシアから見れば東方オリエントである。 彫りは深く、体格も良く、我々から見れば西洋人だが、多くは髪も目も黒く、肌もすこし浅黒い。 (時として抜けるように白い肌をした者もいるが)
では、なぜナタリがチェチェン人なのか。答えはチェチェンとロシアは境を接しており、 何世代もの間で盗ったり、盗られたりすることにより遺伝子が交じり合い、 一定の確率で金髪碧眼も顕われるということだ。男女ともに。
テレビでもかなりの割合で金髪のチェチェン人ゲリラの死体が映し出されている。
 
仕事を終えて帰宅するとララが夕食をつくって待っていた。
我が家も段々と彼女の支配下に置かれつつある。確かにロシアではKGB(現在ではFSB)が おおっぴらに盗聴しているから電話はまずいことは分かる。 ただ、仕方ないとはいえ、(いや、決して仕方なくはないが)小生、 時として雌豹を家のなかに飼っているような錯覚に陥る。
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