会員の作品展示室

外大の思い出   嶋田一郎(専27・大01)
その1 五十年ぶりのロシア語

昭和28年卒の「大学第1回卒業生」には私と同様に前身の「大阪外事専門学校」からの編入生が数名いました。 学制改革による3年制の専門学校から4年制大学3年生への編入学が認められた年でしたので、 計5カ年間みっちりとロシア語を勉強させていただきました。 しかし、講和条約も未締結の時代、同窓生の中でロシア語を職業に活かせた人はごくごく少数でした。 ながらくNHKのモスクワ特派員を勤められた吉川光君、読売新聞のモスクワ特派員だった 古本昭三君(残念ながら両君ともご他界されました。)や、 大学でロシア語を通じての教育研究に業績を残された植村進君や小松勇吉(城野)君がおいでになります。 私は第二外国語の英語を職業として高校で勤務し20年前に定年退職いたしました。

 17歳の冬、偶然に古本屋で出遭ったキリール文字の不思議さに魔法のように魅かれて以来、 ロシア語に強い興味と郷愁のような愛着を持ち続けながら学習を続けました。 しかし卒業した途端、ロシア語を話す機会には恵まれなくなりました。 学生時代に覚えた外国語を使わないでおれば、いったい何年で忘却してしまうのかの実験台のようだなと 思いながらずっと過ごしてまいりました。退職の年、英語学会の会誌に掲載した英文の回顧話に、 「学生時代に専攻していたロシア語が徐々に頭の中からfade awayし、今では、ゴルバチョフのロシア語よりもブッシュの英語の方がわかりやすくなった。」と あの歴史的なマルタ会談での両大統領の話を聞いたときの正直な気持ちを書いたことを思い出します。 あれほど熱を入れたロシア語とすっかり袂を分かたねばならなかったのは、正直に言って不甲斐ない残念無念の思いでした。

 ところが数年前、JAXA(日本宇宙科学研究開発機構)に勤務する長男がモスクワの ロシア科学アカデミーで学会があるので随行員(accompanying person)として同行してくれないかと頼んできました。 長男は英・仏語は話しますがロシア語はできません。 おそらく忘れてしまっているだろう親父のロシア語でも、 少しは頼りになると考えたのでしょうか。 しかし私にとっては、この歳になって初めてのモスクワです。 チェチェンの紛争の最中、山之内重美さんに現地情報のご提供をお願いしたりして、 多少の不安を抱えながら出かけました。滞在中、地下鉄リージスカヤ駅では爆弾テロあり、 北オセチアではベスラン小学校の占拠事件ありで留守役の家内には大変心配をさせましたが、 私は長男が学会に出席中の昼間、1週間にわたって一人でモスクワ(それも地図を手にしての下町)を 歩く楽しみを得ることができました。かねてから訪れたいと思っていたトルストイやフーシュキンの記念館、 トレチャコフ美術館などいくつかを巡りました。また、長男と専門を同じくする ロシア科学アカデミーのБорис  Новожилов 教授のご案内でクレムリンやモスクワ大学などの名所を案内してもいただきました。 学会主催の歓迎行事が毎夜あり、モスクワ川の川下りでは夜景を楽しみ、 楽団の生演奏を伴奏に酒の勢いも借りて学生時代によく歌ったロシア語の 民謡(КатюшаОгонёкから来た日本人の老人がロシア語で歌を歌うのが不思議に見えたようで、 先方の女性歌手がわざわざ私の口元に耳を近づけてきて驚き顔で一緒に歌ってくれました。 調子が上がりデッキでコサックダンスを披露する人も現れたほどに盛り上がりました。 長男の前で親父の面目を施したひと時でした。

 旅行案内に書いてあったとおりに、 初めてにしては大胆にも値段交渉の末に乗ったタクシーの運転手の ビクトル君が「 Китаец или кореец?」と聞いてくる。 「Японский」と答えた途端、彼は振り返って私の顔を見ながら不思議そうな顔つきをしている。さらに「Я не знаю японские говоричь порусски так хорошо」とかなんとか言っている。お世辞なのか、 それとも彼の経験値では日本人でロシア語を話す乗客にはめぐり合わなかったからだろうか。 ともかくその言葉を真に受けて、少しチップをはずんだことでした。

青春時代のエネルギーのすべてを注いだロシア語がこのような姿でしか役立たせられなかったことは、 貧しい中で学資を出してくれた亡き両親に申し訳ないような気にもなりましたが、 ボリス教授にも、モスクワのタクシー運転手にも、五十年前に取った杵柄のロシア語でかなりの程度 communicateできたことや、行き交う人に道案内を頼みながら物騒なモスクワを一人でも 楽しく歩けたことだけで、外大5年間にわたる学習の努力が少しは報いられたような 気持ちになったことでした。

  また、昨年の夏、モスクワでお世話になったボリス先生のご子息が家族連れで来日された機会に、 返礼にと思い、我が家に招待しました。高校・大学生の孫を含めて私の家族一同は、 ロシア語を話すおじいちゃんは初めてでしたので物珍しげに見聞きしていました。 アイルランドのダブリン大学教授で宇宙工学の専門家である Васийлий Новожиловのご家族3人が、私の話にうなずき、微笑み、相槌を打たれる様子を見て、 孫たちの目には、「おじいちゃん結構やるじゃないか」と映ったそうです。
 自分ながらも老木のロシア語に宿された種が、50年ぶりに新芽を吹きだしたみたいだなと 思えたひと時でした。お土産にお父さんのБорисさんには菩理寿、 息子のВасилийさんには和粋里の漢字名で印鑑を作り、 趣味の陶芸で焼いた湯飲みとともにロシア語で説明をつけて差し上げたものでした。
                                       (平成22年4月)

その2    落書き

卒業までにはロシア語の本格的な小説を読んでみたいとのかねてからの願望に挑戦しました。上八学舎の図書館でたまたま蔵書リストにあったА・К・Толстой の ‘Хождение по мукам‘ でした。「苦悩の中を行く」の題名は、戦後色のまだ濃く残る時代の色合いにぴったりで、題名に惹かれたからかも知れません。かなり長編でしたので最後まで読み通せるか当初は自信が持てませんでしたが、徐々に興に乗り、欲もでてきて夜昼となく辞書を片手に読み進みました。

その書物はかなりの大冊でしたが粗末な紙質の上に、全体が色褪せていました。だが、まだ他の誰も読んでいない本だったので新鮮な気持ちで読ませていただきました。というのも製本時に全紙を四つ折にしたままで装丁がなされており(昔はよくあった。)、ペーパーナイフを用いてページごと一枚一枚切り離しながら読み進まねばならなかったからです。

おぼろげに残っている記憶では、なんでも美しい姉妹とその恋人たちが第一次世界大戦頃からのロシアやウクライナにあってさまざまな苦難の後再会の喜びを得るというような筋だったと記憶しています。ともかく読み終えた時は成就感で無上の喜びを感じました。図書館の書物に落書きをするのは良くないと知りながら、つい読み終えたときの感激と年月日をロシア語で末尾に落書きしてしまったのを記憶しています。大学が場所を移された今も書架に残されているのかどうか、またその書物を探してくれた司書の淡野さん(だったと思う)は今どうしておいでかとなつかしく回顧しながら、思い出の一こまを書きました。

その3  プレトネル先生と酒肴を共にする。

 昭和28年卒業が近い頃だったと思います。上八校舎からの帰る土曜日の昼下がり、近鉄の上六駅近くの道端のレストランの窓際の席で、プレトネル先生が食事をなさっていました。思わず会釈をした途端、先生がわざわざ腰をあげて、「Иваи−сан, (私の旧姓)входите, пожалуйста.  と、招き入れていただきました。先生にはロシア文学講義でドストエフスキー論と言語学の講義を受けていましたが、国際的にも高名な大先生の食事の場へお誘いいただくとは正直驚きでした。見ると先生のテーブルには日本酒の銚子が2本と刺身のお皿が置かれていて、先生の顔はほんのり紅潮していました。Садитесь,  пожалуйста .と椅子を勧めていただきます。一応はご辞退しましたが、上機嫌の先生のお顔を見れば逃げ出すわけにもいかず、お申し出に甘えることになりました。「これ、カジキです。私の好物。わさびが大好きです。」皿の刺身を箸で指しながら、今度は日本語でおっしゃいます。「どうぞ」といわれても一つの皿の刺身をつつくほどの厚かましさはまだ持ち合わせていませんでした。 気持ちを察してか先生は、別にお酒と同じくカジキの刺身を注文してくださいました。

先生は日本語もかなりに堪能でした。「男女」も「夫婦」も男性女性の順ですが「妹背」は女性が先ですね。古代日本も女性優位だったんでしょうかね。 先生の口から「いもせ」が飛び出したのは不思議な感じでした。 また、先生の持論として「キリール文字を廃してローマ字化しないとロシア語は国際化できないとおっしゃって、先生の教材は英文タイプで打ち出されたロシア語でした。それは却って読み辛い感じを覚えたものでした。それはともかく、後にも先にもプレトネル先生と学生の分際で、カジキマグロを肴に酒杯を交わした方はまずおいでにならないのではないかと思っています。

飲めば話し相手が欲しくなる酒飲みの心境は今になってよくわかりますが、先生もご他聞に漏れずそのような気持ちでおられたのでしょうか。 私がその話し相手に選ばれたとしたらまことに光栄に思うのですが・・・・実は、その頃の私、早くに卒業論文も完成し、アルバイトで飲み代には不自由しない稼ぎがあり、上六の飲み屋街で夜遅くまで友達と飲んでいたこともありました。翌日の授業中、二日酔いで朦朧とした私の顔(あるいは臭い)に先生は気づいておられ、こいつは酒好きな奴だから誘っても大丈夫と思っておられたのかもしれないと、今更ながら恐れ入っている次第です。大きな体躯に赤ら顔、その満面に笑みをたたえられ、きらりと光るふちなし眼鏡が印象だった先生の姿を思い出し、ご冥福をお祈りしております。


その4   新聞紙のブラジャー

戦後間もない昭和25年ごろ、ブラジャーのごとき贅沢な品はまだ日本に存在しなかったようです。 男子学生はもちろん女子学生ですらこの商品名さえご存知なかったようでございます。

語劇祭で Гогольженичьба を演じる直前、新聞紙を丸めて紙ひもで十文字にしばった二つの塊を、すでに舞台用の花嫁衣裳で盛装したご自分の胸元に差し当ててほしいと、突如として申し出られた女子学生がおいでになりました。 舞台監督という立場にいたために私に申し出られたのでしょうが、いくらなんでもお互いまだ20歳の青春時代、ご本人からのお申し出とは言え恐れ多さとてれくささで、一瞬ためらいましたが、開幕のベルが鳴り、発作的にお申し出に応じたことでした。 目を閉じたままやおら花嫁の晴れ着の下に新聞紙の塊をそっと置かせていただいたような次第です。後で聞いた話では、男子学生のだれかが作ってきたようで、幕が開く直前に彼女に知恵付けて着装を薦めたようでした。 それに応えられた彼女の純でいじらしい娘心に改めて敬意を表しますとともに、ひそかながらもほほえましく懐かしい思い出となって残っています。ただあえて申し添えれば、私が新聞紙の塊から察した限りでは、ご本人が気にしておいでだったような胸元の淋しさはなかったように思うのですが。

この方こそ今日の女子学生の先駆となってロシア語学科の門をたたかれた勇気ある最初の女性でございました。 当時は「紅一点」と珍しがられた存在で、後に判・検事として法曹界で活躍されたT女子にまつわる話ですが、 あの世から「そんなこと今更ばらさんといてよ。」と聞こえてくるように思いながら、 ご冥福をお祈りしたいと存じます。 いや生きておいでだったら今や傘寿のおばあさん、 「いまごろなにを言ってんのよ。 ハハハ。」で終わりそうなお人でもありましたか。
 また新聞紙の塊の考案者と製作者とおぼしき男たちもすでに幽明境を異にされました。 合掌
その5 イーヤ先生とそのお人柄に思う
― つつましく、優しく、心広く、我慢強い方でした―

 昭和23春、教室に当てられた高槻の元兵舎の一室には銃器類の油の臭いが残っており、 窓ガラスには爆撃による破損防止のためか、テープが十文字に貼り付けられ、3,4人が座れる長机が 10脚ばかりと、背もたれのない丸椅子数十脚が並んでいた。 兵卒が駆け巡ったであろう床板の縁は擦り切れて丸みを帯びていた。 わずかに黒板一枚がようやくにして教室の態をなしているだけで、 終戦直後の極端な窮乏時代の借家住まいであった。
 入学生の中には満州やシベリアなどの引揚者もいて、ロシア語で受験し、 すでにロシア語をかなり達者に操っている方々もいたし、 陸軍幼年学校や士官学校でロシア語をある程度学んできた人々もいた。 大方の初めてロシア語を学ぶ者が、ローマ字のおもちゃ箱をひっくり返したような文字や、 性・数・格の変化に悩まされているときに、 イーヤ先生と冗談を交えた話ができるほどの余裕のある人たちであった。 習得には最も困難なのがロシア語だと聞いて挑戦しようと意気込んでやってきた野心家もいる一方、 第二希望で入学したが、当時は国民の1割程度しか高等教育を受けられなかった時代であり、 国立高専として高名な大阪外語に入れたのだから専攻のロシア語などあまりきばらなくてもまあ何とか 世に出ることもできようかといった暢気で結構な方々もおいでであった。 さらに失礼ながらそもそも外国語を専攻しようというのに、言語障害をお持ちかとおぼしき方もおられたくらいで ある。ともかく種々雑多な経歴と能力をもつ種々雑多な入学生が種々雑多な目的をもって、 当時はまったくというほど国交や文化交流のなかった近くて遠い国の言語の学習に取り組もうとしていた。
Ия Евгеневна Лебедева先生 初心者に、それもさまざまなスタンスを持った学習者に、外国語を教えることほど教授者に辛抱強さが 求められることはない。先生方、中でも唯一の native speaker としてロシア語以外は一切使用されなかった (それは外国語指導法でいうdirect methodで、最も必要かつ適切な指導法だと思えたが)イーヤ先生には、 毎日か隔靴掻痒の感に悩まされる日々であったろうことは容易に察しられる。 授業中思い通りに進まない学生とのやり取りに苛立ちを隠せない先生の困惑顔が今も目に映る。 それでも表情を変えず、笑顔を絶やされなかった先生の優しさと辛抱強さには頭の下がる思いである。 ひょっとしたら、この忍耐強さはレーベジェフ家の伝統だったのかもしれない。 というのも彼女にはユリアン レーベジェフという弟さんがおいでであった。 いつか上八にあったイーヤ先生の宿舎を訪れたとき、偶然にお逢いした彼が、 私に見せてくれた日本語の辞典から、彼の学習のすざましさを知らされたのである。 ポケット版だったがかなり大きな日本語の辞典のすべてのページには、 隅々にいたるまで赤青の色で印や書き込みがつけられていて、その成果としての彼の日本語はすばらしく 流暢なものであった。レーベジェフ家が努力家の家系であることの証明と思えたことであった。
 冬は平均気温がマイナス30度前後にもなる厳しい環境で育ち、ロシア革命の嵐から逃れ、 異国の地で生きるための必要な資質、つつましさ、遠慮深さ、まじめさ、 辛抱強さなどを自ずと身につけておられたのであろう。 先生の教材は見事な文字のガリ版刷りであった。チタの師範学校でロシア語の指導に必要な書写の基本を しっかり学ばれたからであろう。文字は人を表すとも言うが、まるで教科書にあるような実にきれいな 筆記体で書かれていたし、板書の字も同様であった。(写真のサイン参照) また、先生の声は ソプラノで、ロシア人のご婦人らしい丈夫な体格とは少し異なったか細く優しい声であった。 気分転換にと思われたか、時おりロシアの民謡などを歌っていただいた。
 ご退職後の生活が大変厳しい状況に落ち至ったのも先生のつつましさ、 遠慮深さや度を越した辛抱強さが仇となった感もある。そして皮肉なことにその結果として、 教え子たちによる支援組織ができ、今日のロシア語科同窓会「アヴローラの会」が組織されることになった。 考えてみれば「アヴローラの会」はイーヤ先生の申し子とも言えようか。 (経緯は同級生の繁村純孝氏による「アヴローラの誕生」に詳述されている。)
 とにもかくにも母校の歴史の中でその三分の一以上にも及ぶ期間、 ロシア語指導に当たられた先生のお人柄を偲び、ご冥福をお祈りいたいと存じます。

写真
高槻校舎の板壁を背景に Ия Евгеневна Лебедева先生と自筆のサイン

その6 『語劇祭のポスターから』
 昭和25年(1950年)の秋、久しぶりに語劇祭(文化祭)が開催された。 戦後の窮乏時代だったせいか、その前の2年間は語劇祭が開かれず、翌年の昭和26年も学制改革のため 卒業学年がなく、開催されていない。したがって、オリンピックと同様にこの4年間で唯一の語劇祭で あったわけである。私ども外専27期のロシア語科では 語劇際ポスター Гогольの「結婚」 (Женитьба)を演じたが、 写真はその際の文化祭のポスターである。

 なにせ今から60年も前のこと、敗戦から5年しか経っておらず、 紙質や印刷技術は現在とは比べ物にならないほどお粗末であり、縦53センチ、 横37センチという小さなものではあったが、何か捨てがたい青春時代の記念物と考えたからだろうか、 私のアルバムの巻末に大切に折りたたんで残されていた。 文化祭の終了後、街頭や電柱に貼っていたものを回収したため、一部が破けたままの惨めな姿ながら、 今日まで残っていたものである。

 この久しぶりの語劇祭は、今は跡形もない大手前の毎日會舘で、大阪外國語大学(いずれも下線部は旧字体)の主催で開催されたもので、その様子については、avroraのホームページに「大阪外大語劇祭の歴史・・・昭和25年」の名で収録されている。なお、この年をもって大阪外事専門学校はその歴史を閉じ新たに大阪外国語大学が開学2年目を向かえていたが、語劇祭を実行したのは私どもの学年である専門学校3年生(専27回生)が主体であった。
 広告は武田薬品の感冒薬ソボリンで、当時は雑誌の裏表紙などによく出ていたが、 今では古本業界で希少価値を有しているとのことである。 チケット業界が存在しなかった当時、入場券は在阪の主な百貨店(阪急・大丸・高島屋・上六・アベノ (なぜか阪神・松坂屋がない))で販売され、入場料は50円であった。 そば1杯が15円、素うどんが10円(食品は今より一般に高額であった)の時代だったが、 それほど安い料金でもなかったようである。 あれこれと時代を思い起こさせてくれる古いポスターである。

 しかしこの古い一枚のポスターは私の脳裏に二十歳の青春時代とその頃の仲間たちを蘇らせてくれる。 今は半数近くの方々がご他界されてしまったが、語劇祭でキャストとして舞台に上がってくれた 谷哲之助、山下慎、高橋水枝、黒田(吉住)愛、大西良平、植村進、城野(小松)勇吉、宮下正の諸兄姉による 台詞や演技、また、スタッフとして演出、音楽、放送、衣裳などを担当してくれた小林保、繁村純孝、 森田芳穂、古本昭三、佐藤理の各位のお顔や活躍ぶりが昨日のことのように鮮明に浮かんでくる。 夏休みの初めから文化祭当日まで、ほぼ毎日励んだ台詞と演技の練習を含め、台本作りから演技の細部について 監督を務めさせていただいた私にとって、この語劇祭は、ご指導をいただいた イーヤ先生のお顔とともに学生時代の最高の思い出の一つとなっている。

その7 「外専」と言った頃の露西亜語科

 大正11年(1922)専門学校令により大阪外国語学校(大阪外語)として発足し、 昭和19年(1944)大阪外事専門学校(略称外専)と改称されました。 背景には当時の軍部による外国語排斥思想があったともいわれています。 昭和26年(1951)大阪外国語大学となるまでの7年間だけの学校でした。 大学設置基準で「ロシア語学科」になるまでは、「ロシア(露西亜)語科」でした。 その名のとおり専門がロシア語ですので、学習のほぼ三分の二までがロシア語の授業でした。 私たち専27回はその間の昭和23年(1948)に入学し、26年春に卒業しました。 したがって在学は外専の最後の3年であったわけです。

丸山先生、片岡先生、イーヤ先生  何しろ今から60年も前、高槻の仮校舎で、寒空とひもじさと学習用教材の不便さに耐えながら、 ロシア語学習事始めが始まりました。今ならば授業法に関して、avroraの出版物紹介にもあるように 「ロシア語の授業づくり」などという立派な書物の出版もされ、組織的な研究も進んでいますが、 当時はそもそも「ロシア語教授法」なる学問などあったとは思えぬ時代でございました。

 先生は、学科長の岩崎兵一郎教授、丸山忠雄助教授、片岡孝講師、イーヤ・レーベジェワ外国人教師、 一時補充講座に十時(ととき)非常勤講師がお入りになり計5名の教授陣でした。 それぞれの先生がそれぞれの進め方で授業をなさいました。教材はといえば、岩崎先生とイーヤ先生は たしか手作りのものでした。丸山先生は「ロシア語階梯(だったか?)」という文法書、 片岡先生は Курс русского языка という名のアメリカで出版されたロシア語教本で、 当時としては立派な体裁のものでしたが、すべて説明は英語によってなされていました。 日本語による適当な教則本がなかったためか、ロシア語と英語の両方を学ばせるための 意図的な教材選定であったのか、説明を聞けなかったのは心残りです。

 Case(格)についてNominative, Possesive, Dative, Accusative,など英文法の用語に慣れていない 初心者には、ロシア語の格変化がそうでなくても厄介なのに理解を一層困難にしていたように感じました。 まして、Instrumental(造格)、やPrepositional(前置格)などというのは英語の文法にはないため、 その意味を理解するだけでもひと苦労でした。
 Gender(性)についても、Male, Femaleはまだしも、 Neuter(中性)とは何かを理解するのには時間を要したものでした。 sexを持たない物品などの名詞にまでgenderがあり、それにまつわる形容詞や数詞までもが伴って変化するなどを 聞くと、普段ロシア語をしゃべっているロシア人とはどんな頭の持ち主なんだろうかと 不思議にさえ思えたことでした。

 外国語の習得過程では、わかったような、わからないような曖昧な理解しかできていなくても、 言葉を繰り返し、繰り返し聞き話すなかで、 徐々に理解が深まり正しい運用ができるようになるものだと思います。

 今にして思えば、岩崎兵一郎先生やイーヤ先生はまさにそのような方針で授業をされていたと思います。 題材は主に1ヶ月遅れのправдаизвестияновое времияなどの 新聞や雑誌からの「時事ロシア語」とでもいうものでした。  話がСССР(Союз Советских Социалистических Республик)に 及ぶと大変力のこもった語調になり、まるでスターリンが演説しているようだと思えたことでした。 胸を張ってソビエト国歌にあるВеликая Русьなどの言葉を発せられると大変よく似合う先生でした。

一方、丸山先生は陸軍幼年学校でご勤務されていただけに極めて地味で実直な先生でした。 grammatical approachとでも言いますか、ともかく理路整然とロシア語文法や成り立ちを説明されました。 これもまた限られた時間内での習得には大変効果的であったと思います。

 片岡先生は旧ソビエトへおいでになった際にЮжносахаринКорея, Манжурия, Формозаなどが赤色で印刷されていた大日本帝国時代の地図をお持ちになって、相手を驚かせたというエピソードがあるくらいの大様な方でした。 サルトルなどのフランス近代文学にも言及され、ロシア語の講義がよく文学論に発展したものでした。

 十時先生はロシアの古新聞の記事を教材にされ、興味をそそる社会三面記事を通して 男女の人間模様など面白いお話を聞かせていただきました。

 お教えを受けた5人の先生方はすべてお亡くなりになりました。 ご冥福をお祈りしながら、今は不確かとなった記憶をたどり、勝手な思い出話をすることをお詫びいたします。

 それにしてもロシア語事始めのころ、苦労したのは名詞や動詞の変化でした。 зватьの人称変化でどうしてзовузовёшьのようにоが入ってくるのか議論に なったことがありました。「もしоがなければ「ズブー」となり耳障りではないか。」と 言うのが大阪人らしい秀逸の回答でした。
 また、過去形でも性により変化してзвал звала звалоとなるのはいいとして、 なぜ力点までもが前後に移動するのか、いや、そんなことを考えることは無駄ではないか、 「考えるより慣れろ」に徹することだと知るには多少の時間を要したと思います。

 英語のgoではせいぜい went, gone, going くらいの変化しかないのに比べ、ロシア語の変化はなんと複雑なのだろうか。 идтииду、идёшь・・・に始まって過去形はшёл шла・・のようにまったく無関係に 見えるような言葉となり、さらにшедшийやидя、идучьなどの変化となれば、 熱心で忠実な初心者はパニック状態に陥ることになりかねません。 датьはさらに厄介者でした。 дам дашь даст дадим・・・
それがдаватьになると даю даёшь・・・となるなど、 これでもかこれでもかといじめたおされているような感じです。

 また、идтиには兄弟がいて、その名はходитьなのだとやがて知ることになりましたが、 卒業までについぞその違いを使い分けすることはできませんでした。 さらにидтиにはвойти、выйти、зайти、пойти・・・などといういとこが並んでいて、 そのいとこにはそれぞれまたвходить、выходить、заходить・・・という兄弟が いるのだとやがては知るようになりました。 また、他動詞やその派生語が要求する目的語や補語の格(что, чего, чему, чем, чём, や  кто, кого, кому, кем, ком ) とか、完了体、不完了体の使い分けには一番悩まされましたが、 それもおぼろげにわかる頃には、少しはロシア語の闇に光明が見えかけたと思えたものでした。

 卒業後、最愛の妻に去られた不甲斐ない男のように、ロシア語への思いを募らせつつも 半世紀あまり過ごしてきましたが、ついにその機熟さず、今日avroraへの寄稿の機会を得て ロシア語の片鱗を思い起こすことができ、別れた妻が戻ってきたようなうれしい気分に浸っています。

写真は丸山忠雄教授(向かって右)片岡孝助教授(中央)イーヤ講師(左)
高槻学舎の庭にて(昭和23年ごろ) 


その8 丸帽から角帽そして無帽へ
−大阪外国語大学誕生のころ−

 国立の高等教育機関における「戦前」と「戦後」を分ったのは、昭和24年(1949)新たに施行された 国立学校設置法による新しい四年制大学の誕生でした。当時「新制大学」と呼ばれました。
 新制大学は「雨後のたけのこの如く」と呼ばれたように、旧制高等学校や大学予科、高等専門学校、 師範学校などが、公立学校をも巻き込んで合併や統合を行い、いずれも共学の「大学」に生まれ変わり、その数一挙に七十余校にものぼった年でした。女子学生は当然珍しい存在でCo-ed(Coeducationから)という新語が生れた程でした。それまではせいぜい十指にも満たなかった国立の旧帝国大学等いわゆる「旧制大学」も制度上では同じ「大学」となり、戦前の複線型高等教育制度が廃止されることとはなりました。その頃の日本はまだ占領下にあり、 下山事件、三鷹事件、松川事件など重苦しい事件が相次いで起こっていました。

当時、ロシア語学科の学科長であり、図書館長でもあった岩崎兵一郎先生は、統合や合併をせず単科大学を選択したことに関して「全国で最も規模の小さい大学ではあるが」と前置きしながら、「小規模でも存在価値が高く、光を発する大学でありたい。」旨のお話をされたのを覚えています。

 大正11年(1922)年、大阪外国語学校として発足し、同19年(1944)大阪外事専門学校と名を変え、 さらに同24年(1949)大阪外国語大学が誕生しました。
 しかしそれから58年後の平成19年(2007)、押し寄せるグローバル化の波には抗しきれず、 ついに総合大学の一角を占める大阪大学外国語学部となり、校歌にもあった「東の空に明けの明星一つ」という 輝かしい校名はついに歴史の中に埋没することとなりました。 思うにこの85年間、岩崎先生の願いどおり外国語専門の学校として小さいながらも大きな役割を果たし続けた大学でした。

 私ども同年生が在学したのはちょうどその「新制大学」として大阪外国語大学が誕生した前後の数年間でした。 同年齢でありながら学制改革に遭遇したため、大阪外事専門学校に入学し卒業した者(在籍3年)、 大阪外国語大学に入学し卒業した者(在籍4年)、大阪外事専門学校に入学・卒業し、 さらに大阪外国語大学の後期3年に編入学し卒業した者(在籍5年)の3様がいる特殊な学年です。 私はその3番目の類型で、専27回生として入学・卒業し、大学の後期に編入学し、卒業いたしました。

大阪外事専門学校生のころの丸帽姿  私が在学した5年間は、時代の急変にともない学生気質の移り変わりが激しい時代であったように思います。 旧高専には戦前から受け継がれた学生の気風や文化が強く残されていました。 服装はといえばOCFL(Osaka College of Foreign Languages)を組み合わせた校章(縦長の小判型)のついた 丸い帽子をかぶり(写真1:右)、衣料事情がよくなかったこともあり、思い思いの服装でした。 いわゆる弊衣破帽が旧制高校や高専の世界では大手を振ってまかり通っていた時代であり、 専27回生 1年生のときの写真 時には高下駄を履き、黒マントを着た金色夜叉の貫一姿の方もおいでだったし、 いかにも外地から引き揚げてきましたといった服装の方もおいででした。(写真2:左)

 「ああ玉杯に花受けて」に象徴されるように、寮歌が旧制高校や高専の学生生活に溶け込み精神的な 支えの一つになっていました。わが外語でも、入学直後に先輩により歌唱指導が行われました。 校歌と寮歌とそれに誰が持ち込んだのか熊本の民謡キンキラキン節の替え歌(大阪外語キンキラキン節)でした。 これらは全語科に共通したものでしたが、歌詞の一部はそれぞれの語科の特色に合わせて替えられていました。 たとえば「外語出るときゃ 一番で出たが、出たがばい ソラキンキラキン 今じゃ○○の靴磨き それも そうかいな キンキラキン」と歌われましたが、 その○○はモスクワであったり、ロンドンやパリであったり北京であったりしました。

   一方、新制大学に入学した学生は黒い学生服に角帽を被っていました。帽子の校章は「大学」で、 どの大学にも通用しますが大阪外国語大学の校章だと言えるものではありませんでした。 大学3年に編入後、帽章は「大学」でした。 左襟に従来の小判型の小さな大阪外語学校以来の校章をつけ、右襟に所属語科をあらわす アルファベットの徽章(ロシア語科はR)をつけていたのがわずかに外大生だと判別できるものでした。 黒革靴に黒革鞄を持った大学新入生は、旧制のバンカラ学生とは対照的に学生紳士のように見えたものでした。 私のように途中から編入学した者は、わざわざ角帽を購入する機会もなく、その気持ちもありませんでしたが、 在学した記念にと勧められ友人から角帽を借りて写真を撮ったことでした。(写真3:右)

 そもそも角帽は明治のはじめ、東京大学の創立時代に始まったものといわれていますが、 大学生の象徴として多くの大学が校章や形に特徴を持たせながら取り入れるようになり、 国民の間では、せいぜい1%ほどしかなかった大学生への憧れとエリートの象徴となっていました。 しかし「雨後のたけのこ」のように多数の大学が一度に誕生した今となっては、 角帽への憧れや意味合いも薄れてきたからでしょうか、それとも長髪には似合わなくなったからでしょうか、 あるいは所属や階級を明示するための軍服や軍帽と同様に学生服や角帽も消滅の運命を迎えていたからでしょうか、 ともかくいつの間にか角帽は姿を消していきました。 それはさながら戦前から戦後への学生気質の変化を物語るかのごとき現象でした。 その後聞いた話ではやがて寮歌もキンキラキン節も学生の口から遠ざかって行ったとのことです。

写真説明
(写真1)大阪外事専門学校生のころの丸帽姿
  校章はOCFL(Osaka College of Foreign Language)を
  組み合わせたデザインでした。
(写真2)専27回生 1年生のときの写真(高槻学舎にて)
  この日は15名中5名が丸帽姿でした。
(写真3)大学3年に編入後、級友の財津君から帽子を借りて写す。
   帽章は「大学」でした。


その9 ロシア語訳の和歌に思う

ロシア語訳の和歌集  これは在学時ではなく、比較的最近の出来事についての思い出です。
もう10年以上も前になりますが、ロシア人の知人であるボリス  ノボジーロフ教授(ロシア科学アカデミー)からЯпонские пятистишия(日本の五行詩)という単行本をご恵送頂きました。B5版四百ページばかりのロシア語訳の和歌集です。(写真)最初のページにはこんな歌がありました。

О , если б на свете
Вовек не бывало вас,
Цветущие вишни!
Наверно, тогда бы весною
Утишилось сердце мое.


 これは古今和歌集にある在原業平の歌で、思い通りにならぬ女性を桜に喩えて詠んだともとれる「世の中に絶えて櫻のなかりせば 春の心はのどけからまし」の露訳です。
 ロシア語を離れて半世紀以上にもなりますが、学生時代に愛用していた八杉貞利編の岩波露和辞典を片手に、 ロシア語の百人一首のカルタ取りをしているような気分で一首一首を読み進みました。 万葉集や古今和歌集に収録された和歌の現代訳については多くの書物が出版されていますが、 公職を退いた後で時間もありましたので、あえてそれには頼らず、 ロシア語から直接に元の和歌を探る作業をいたしました。 そのことで、昔取った杵塚のロシア語を思い出すのに結構いい勉強をさせていただきました。  「なかりせば」「からまし」などの反実仮想の助動詞(仮定法)を用いた表現では、 学生時代にはうまく使えなかったбы ( б )を使って上手に原意を伝えているものだなと今更ながら感心しました。
 その書物には、菅原道真、紀貫之、平兼盛、西行、順徳院、等々の和歌が収録されていますが、 私の好きな石川啄木の歌集「一握の砂」から42首のロシア語訳も掲載されていました。
 そのうちのいくつかを紹介しましょう。ご存知のように啄木の詩は3行詩ですが、 ロシア語訳は5行詩(пятистишия)で書かれています。

東海の小島の磯の白砂に
われ泣きぬれて
蟹とたわむる

На песчаном белом берегу
Островка
В Восточном океане
Я , не отирая влажных глаз,
С маленьким играю крабом.


 啄木の当時の生活や健康状態を知った上で「われ泣きぬれて」を読めば、作者の心境がよく伝わってまいります。
 ロシア語訳の не отирая влажных глаз (溢れる涙を拭いもせず)は 啄木を知らないロシアの読者にはどのあたりまで理解されるのだろうかと気になりました。 しかし考えてみれば、所詮外国語の翻訳には限界があり、その上韻文でもあります。 もっと深く知りたければ更にその背景などを自分で研究することである。 これは私どもが外国語の文学作品や詩歌を翻訳で読む際の最低限の心構えではないかと悟るようになりました。 また5行目の表現について私どもならば Играю с маленьким крабом. としてしまう ところをなぜ倒置法が用いられているのかが不明でした。何か音韻上の理由があるのかもしれないなと 浅はかで勝手な疑問を抱いたことでした。

しっとりと 涙を吸える 砂の玉
涙は重き
ものにしあるかな

Там , где упала слеза,
Влажное
Зерно из песчинок.
Какой тяжелой ты стала,
Слеза!


 おなじく涙を擬人化してты と呼んでいますが、 Там , где упала слеза・・・ は意訳というか、 かなりな飛躍を感じる訳出ではないかと感じました。私の取り間違いでしょうか。

 いのちなき 砂の悲しさよ
さらさらと
握れば指の間より落つ

О, как печален ты,
Безжизненный песок!
Едва сожму тебя в руке,
Шурша чуть слышно,
Сыплешься меж пальцев


 ここでも砂を擬人化して. ты と呼んでいますが、こちらは直訳的で分かりやすい表現だと感じました。
  ふるさとの 山に向かひて
  言うことなし
  ふるさとの山は ありがたきかな

Я гляжу
  На родные горы мои
  И не в силах слова сказать―
Так прекрасны 
Родные горы мои!


 「ありがたきかな」を Так прекрасны! と訳されたあたりは、 私どもにはすぐにはできない見事な表現だと感心しながらも、 日本人が持つ「ありがたきかな」の意味の複雑さを表現するより適切なロシア語は 他にないものかと探しましたが、私には見つけることができませんでした。
 そのほか、訳文を通して感じたこと、思ったこと、知ったことは枚挙に暇がないほどでした。
 詩集を贈ってくださったノボジーロフ先生には礼状とともに、 啄木の詩42首を1首1ページごとにコピーして、相当する日本語の詩を毛筆で書き添え、 小冊子に仕立ててお送りしたことでした。

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