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「隠岐、戻り船」

伽耶雅人 作
          
 
隠岐は山陰地方の北の沖に浮かぶ離島群。昔、遠流の地として貴族や上皇などの流刑地として使われた島です。これはその隠岐で生まれ育ったひとりの男の物語りです。
 

奈良郊外の大型スーパーの駐車場、6月上旬の大雨の夜、買い物を終えた紀美子は傘を差したまま、後部座席に荷物を置き、雨をよけながら傘をすぼめ、運転席に座り、ドアを閉めた。と同時に、男が助手席に入り込み、カッターナイフを紀美子の首元に近づけてきた。
「騒ぐと刺す」という。
顔は見えない。というより、顔を見るのが恐い。強盗か、レイプか、誘拐か、殺人か、、
どうしよう。誰か助けて欲しい。でも、今はとにかく、逃げなきゃ。
紀美子は慌てて、ドアを開けようとした。が、男の手が先にドアロックを押していた。
同時に紀美子に覆いかぶさり、リクライニングシートをバタンと後ろに倒した。
紀美子は仰向けに寝かされた。「もう駄目、逃げれない」と思った。
「どうか傷つけないで。お金なら、ここにあるわ」とハンドバックに手を触れた。
男はハンドバックの手を払い、「お金は要らない。騒がなければ傷つけない」
「あなたは誰?なんで私を?」
「誰でもいい。ただの痴漢だ。腰を上げろ」
「ええっ、こんな所で?」
「そうだ、言う通りにしろ」
紀美子は抵抗をやめ、男の言う通りにした。ただ、何も感じまいと心に決めた。
窓の外が気になったが、二人の息が窓を曇らせ、雨が音を消した。
事が終わり、男は暫らく黙っていたが、蝋人形のように表情のない紀美子の顔をじっと見つめ、頬にそっと口を付けした。
紀美子の心と体に雷が落ちたような衝撃が走った。
男は紀美子の顔から目をそらせ、なぜか窓を全開にして雨も気にせず深呼吸を繰り返した。 そして、「ふう」とため息をついて、思い切ったように彼女のハンドバックに手を伸ばし、中の携帯電話を取り出した。その携帯に番号を入力し、発信した。「これが俺の携帯の番号だ。俺が憎ければ、いや、憎くないはずはなかろう。警察に訴え出てくれればいい。指紋のついたナイフをここに置いておく。君の下着にも物的証拠が残っているはずだ。ただ、警察に訴えるなら、今日中にすることだ」と言い残し、闇に消えて行った。
男の姿が見えなくなって安堵したせいか、紀美子の心は却って混乱してしまい、今、何をしていいのやら、何をどう考えていいのやら訳が分からず、暫くの間、車を動かすことができなかった。110番を回すべきか。でも、騒ぎが大きくなれば、、それを知った時の夫の顔が恐い。どうすればいいのか、、
9時近くになって、やっとのことで帰宅を決心し、けだるそうに着衣を直し、車のアクセルを踏んだ。涙が止まらなかった。

夜9時半前に家に辿り着いたが、夫はまだ帰っていなかった。
シャワーを浴び、いつものように夫の帰宅を待って、お通夜のような夕食を終えた。
深夜、夫の寝息を聞きながら、紀美子の心の中では色々な思いがぐるぐる回っていた。
他の男性との「事」は生まれて初めてだった。にも拘らず、夫に対する罪意識も、あの男に対する怒りも感じなかった。胸の動悸は予告なく間欠的に起こった。不思議だった。
紀美子はアラフォー(40歳前後)と呼ばれる年齢になって、エゴで冷酷な夫には嫌気が差していた。
「今まで私は何をしてきたんだろ? 二人で心から笑いあったことなどあったかしら?
夫というより上司のようなこの男のためにいつも炊事、掃除、洗濯、楽しくもない夜の相手をして、寝るだけ? 私の両親や親類を嫌って軽蔑している男と? 死ぬまで?」
紀美子は夫の事を考えたくなくなって、夕方の事件に思いを転じた。「でも、どうしてあの男に憎しみが湧かないんだろ? あんな事されたら痛いと思っていたのに、痛くなかったからかな? あの男が優しくしてくれたから? でも、あいつは悪い。私をおもちゃにした。訴えてやる。明日、警察に電話しよう。でも、胸がちくちく痛むのはなぜだろう? 訳が分からない」
あれこれ考えながら、ふっと気づいた。そう言えば、あいつの言葉には微かに癖があった。言葉に隠岐特有の匂いがあった。隠岐の島の出身者か、だとすると、、
「そうだ、あいつは、あの時のあの子に違いない。きっとそうだ」
紀美子が中学を卒業して隠岐を離れるとき、本土往きのフェリーを追っかけて来た小船があった。操船していたのは同級生の少年だった。思い詰めた眼差しに憶えがあった。
「あれっきりとなってしまったけど、あの子はきっと地元の高校に入ったんだろうな。
名前はたしか信だったような気がする。そういえば、彼からも年賀状をもらったことがある。あれは中三の正月で受験勉強中だったから...」
紀美子の思考は夫の意味不明の寝言にかき乱され、中断してしまった。
「この男は上司にゴマをすってる夢でも見てるのかな。いや、また別件かな。とにかく、私にとっては今が踏ん切り時のような気がする。きっとそうだわ」
紀美子は朝近くになってうとうとと浅い眠りについた。
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信はその日の午後、隠岐西郷のフェリー岸壁から煌めくエメラルドの海を見つめていた。あの時、25年ほど前になる、15歳の少年は見よう見まねの技で小型魚船を操り、フェリーを追っかけた。少年の目は必死でフェリーの中の紀美子の姿を追った。
最初はフェリーもゆっくり進んでいたが、段々と速度を上げ、水中翼が見えるようになった時、漁船は追尾を諦めた。
小型船は行く当てもなく、帰港を決めたが、潮に流され、方向を見失ってしまった。
幸か不幸か、海上保安庁の警備艇に捕らえられ、ロープで曳かれることになった。
港ではパトカーが待ち構えていた。
あくる日、父親同伴で西郷町の家裁支部に送られ、散々説教され「次回、同様の罪を犯したら少年鑑別所に送る」との宣告を受け、やっと開放された。
この事件は島中の噂となり、尾ひれがつき、隠岐を去った紀美子の妊娠説まで出てくる始末だった。さらに、「紀美さんが松江に行ったんも、妊娠中絶のためだげな。お互い美人は損だで」と、まことしやかなオマケまでついた。
信はいたたまれず現地の高校受験を断念し、大阪に飛び出した。
中卒の少年を採用してくれたのは奈良県の産廃業者(産業廃棄物処理業者)前田興産だった。社長の前田は信に「弁慶蟹のようなお前の面構えが気に入った」と快く受け入れてくれ、夜間の高校にも通わせてくれた。
産廃(さんぱい)の仕事は荒く、(二重の意味で)汚かったが、信は黙々と働いた。
「これは仕事だから」と自分に言い聞かせ、あくどい事もやってきた。思い出したくないことも多い。人は過去を美しく思い出すものだというが、信にとっては過去は苦々(にがにが)しい思い出でしかなかった。
同年代の若者が高校、大学で青春を謳歌している間、きたなく汚れた闇の中でゴキブリのように働いた。
ただ、闇の中に一つだけ光を見た。
この稼業を始めて10年が過ぎたころ、若い女の子が前田興産に入ってきた。名は大滝絵美。体格がよく、男勝りの絵美は九州・徳之島の出身だという。
ヘルメットをかぶり、パワーショベルを操作する姿は颯爽として、決して捨てたものではなかった。彼女は3Kと呼ばれる(汚く、きつく、危険な)仕事も厭わず、よく働いた。
信と絵美は離島出身同士ということで共鳴しあい、自然の成り行きで結婚し、小さいながら新居を構えた。どこの家にもあるような多少の夫婦喧嘩や、どこの産廃業者にもあるような多少の(いや、やくざの出入りのような派手な)いざこざはあったものの、大体のところ大過なく時は過ぎていった。 それが、今から4年前、「元気だけが取り得」と言っていた絵美が30歳手前で中皮腫 (正しくは悪性胸膜中皮腫) に罹った。
アスベストが多用されていた工場やビルの解体作業、その廃材の処理作業が祟った。
中皮腫はアスベスト疾病の代表格。これは胸膜の悪性腫瘍、つまり癌である。
まずいことに、中皮腫の早期は自覚症状が殆んどなく、多くは進行した段階ではじめてその診断を受ける。絵美が診断を受けたときは既にV期〜W期に進行しており、手の打ちようがなかった。彼女は窶れ、苦しみ抜いて死んでいった。終末期の絵美は妖鬼のようで、見る影もなかった。
信は自分を責めた。「家などなくてもよかった。絵美にはもっと早くこの仕事を辞めさせるべきだった。なぜ、彼女が『息切れがする』と言ってた時に気づいてやれなかったのか。なぜ、もっと早く病院に連れて行ってやらなかったのか」
絵美の慎ましい葬式に参列した社長の前田も既に年老いており、昔の覇気はなかった。
「わしらのような仕事をしている者はどこに訴えようもない。今のわしに出来ることはこれだけや。何も言わずに受け取ってくれ」と、仏前(300万円)と書かれた封筒を手渡してくれた。信は何も言わず、それを受け取った。
因みに、アスベスト(石綿)による健康被害の救済に関する法律が施行されたのは2006年(平成18年)3月27日である。
仮にこの法律が絵美の死ぬ前に施行されていたとしても、加害者が特定できない彼女の場合、救済対象として認定される可能性は殆んどなかった。
信も前田社長と同じく「どこに訴えようもない」と思っていた。いや、「悪いのは自分だ」と自分を責め、徐々に落ち込んでいった。家の中は汚れた衣服と食器、ゴミが散乱した。
「喧嘩する相手もいない。心が寒い。絵美を死に追いやったこの稼業にも嫌気が差した」
信はパチンコ屋に入りびたりとなった。チンジャラ狂騒曲の中での思考停止が救いだった。
こういう状態のまま時は流れ、2008年の秋、日本に未曾有の不景気がやってきた。
産廃業者はばたばたと倒れていった。前田興産も例外ではなかった。
前田の倒産と前後して、信は息切れと胸に疼きを感じるようになった。
絵美と同じ症状だ。町医者に当面の対処薬と大学病院への紹介状をもらったが、自分の未来は見えている。絵美よりはるかに長い時間、アスベストと付き合っているこの自分が絵美のあとになったのが不思議なくらいだ。
絵美には悪いが、同じような痛みや苦しみは絶対に味わいたくない。
紹介状は破り捨てた。まず家を売り払って、隠岐に帰ることにした。
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長い間に溜まった書類を全部焼いてしまおうと整理していたら、一枚の古い年賀ハガキが床に舞い落ちた。
『信君、年賀状ありがとう。ウサちゃんの絵、素敵です。私も好きです』と書いてあった。紀美子からの返状だった。昔を思い出して胸がときめいた。
あれは中三の冬、何度も何度も書き直して出した年賀状。黄色の三ヶ月のブランコに白と黒のウサギが並んで座っていた。黒ウサギの耳はハート型に曲がっていた。
信は空に「Don't You Know?」という絵文字を書き込んだ。この一枚を投函する勇気が出るまで家とポストの間を何度も往復した。1月の4日に紀美子から返状が届いた。
紀美子の書いた「私も好きです」の6文字は中三の信にとってはどんな花よりも美しく、どんな宝石よりも貴重だった。勿論、彼女が好きですと言った対象は「ウサちゃんの絵」だと分かってはいたが..
今、死を目前にして、紀美子への思いが熱く蘇(よみが)えってきた。
死ぬ前、一度でいい、身勝手だが、紀美子への思いを遂げたい。

信はその時から「紀美子探し」に熱中した。
まず、隠岐に渡った。久しぶりの隠岐の島は驚くほど寂びれていた。
いや、家や建物はちゃんとしている。決して傾いたり、壊れたりしているわけではない。
だが、皆、家の中に閉じ篭っているのか、人通りがなく、町はがらんとしていた。
昔の記憶を辿って、旧友宅を訪ね歩いた。ピンポンを鳴らしても出て来るのは世の中から置き忘れられたような老人が殆んどだった。が、それでも狭い町のこと、あちこち歩き回って、なんとか、紀美子が中学卒業後、松江のK高校に入学したことを聞き出した。
次に、隠岐の中学校から松江K高校に入った者(先輩)を探し当て、身なりを整え、菓子箱とともに頼み込み、K高校の同窓会名簿を見せてもらった。
信は生まれて初めて同窓会名簿なるものを目にしたが、名簿では紀美子の姓は藤之宮となっており、住所は驚いたことに奈良市内だった。しかも、ご丁寧に電話番号まで記載されていた。
それから、信は私立探偵のように紀美子の動きを窺った。
週に2~3回、車で奈良郊外の大型スーパーに買い物に出かけることを知った。
6月上旬、大雨の夕方、紀美子の車が駐車場に入ってきた。そして、信は目的を遂げた。
それが、きのうの事だった。今、隠岐の港で海をみつめている。隠岐は晴れていた。
あれで良かったのか。ああしなければ、ひと目会って、ひと言挨拶するのが関の山だろう。それ以上俺に何ができたか。やはり、あれで良かった。一瞬かもしれないが、紀美子は俺のものだった。しかし、この心の虚しさは何だろう。
胸にぽっかり穴が開いたようだ。一生の思いを遂げたはずだったのに、藁人形を抱いていたような気がする。紀美子は最後まで声を上げなかった。ずっと耐えていた。彼女からの好意など望むべくもない。せめて敵意でも感じさせて欲しかったが、それさえもなかった。
信は、死ぬまえに彼女に会いたかった。会って自分の思いを伝えたかった。
体ではない、ほんの少しでも紀美子の心がほしかった。馬鹿だった。間違っていた。今、やっとそれに気づいた。紀美子の体は奪えても、心は奪えなかった。
「俺は紀美子にとって許すことのできない卑劣漢、犯罪者となってしまった。なんて馬鹿な事をしでかしたんだろう。こんな馬鹿はやっぱり死ななきゃ、治らない。今が潮時だ。さて、北端の白島岬を目指すとするか」
信は行く手に立ちはだかる大満寺山、鷲ヶ峰を見上げた。

その時、携帯電話が鳴った。紀美子だな。
さてどう対応するか。「もしもし、ああ君か」
「そうよ、今、どこにいるの?」
「隠岐西郷のフェリー岸壁だ」
「やっぱ、そうなんだ。あなた信でしょ」
「どうしてそう言うんだ」
「あなたの言葉と眼差しで。あなたの目は今も昔も真っ黒の瞳だったから。ピンと来た。 それに、あなた、警察に訴えるなら今日中にしろって言ったでしょ。つまり、あなたは明日は奈良にいないということでしょ。それなら、信くんだったら、絶対に生まれ故郷の隠岐に帰って来ると思った。奈良からは車で、そのあとはフェリーで。図星でしょ」
「うん。それで、君は今どこにいるんだ」
「私は今、大阪から隠岐空港に着いたとこ。これからそっちに行くから待っててね。なんであんな事をしたのか、ちゃんと納得のゆく説明を聞きたい。でなきゃ、警察に訴えて、無期懲役にしてやるからね。とにかく、ちゃんと待っててよ」
「なぜ君は隠岐に来たんだ。警察に訴えるんだったら奈良でもいいじゃないか」
「私には私なりの理由と目的があるの。とにかく、逃げないで待っててね」
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