「リトワニア旅物語」

伽耶雅人(大17) 作
        

(この作品は2010年7月31日から8月3日《ジャーナリストネット》のサイト上で発表したものです。)
「リトワニア旅物語」

 
リトワニアは北欧・バルト三国(北からエストニア、ラトビア、リトワニア)の一つ、森の美しい国です。 小国ながら独立した国でしたが、第二次大戦前、ヒトラーとスターリンが結んだ独ソ不可侵条約 (その中の秘密議定書)によりソ連に併合され、1941年6月ヒトラーのバルバロッサ作戦(対ソ侵攻作戦)に よりドイツに占領され、大戦後、またソ連の領土に組み込まれ、1990年ソ連崩壊によってようやく独立を回復。 2004年にEU加盟、という歴史を持つ国です。
 

ソ連崩壊から数年後のある日、某商社モスクワ駐在員の私はバルト三国の一つリトワニア共和国に出張した。
バルト三国とはバルト海の東岸。北からエストニア、ラトビア、リトワニア。大雑把に、東はロシア、 西はポーランド、ドイツに挟まれ、長い間、弱者の辛酸を嘗めさせられてきた小国群。
そのなかで西側に最も近いリトワニアにはソ連時代からのドリル・ビットの工場があり、 私は製造現場で検品し、価額を交渉し、売買契約を結ぶという仕事をしていた。
この日も、まず首都ビリニウスで営業の仕事を済ませ、第二の目的地・古都カウナスにある工場に向かった。
いつものように、ビリニウスからカウナスまでは白タクを利用した。
「なぜ、いつも白タクか」というと、ソ連崩壊直後の各地では自動車を持っている者の多くは白タクで その日の糧を得ていた。それに、公営タクシーの運ちゃんもメーターを倒さず、客と値段の交渉する。 つまり、公営も個人も殆んどすべてが白タクだった。何度か有名大学の先生や一流芸術家(自称だが)が 運転する白タクに乗ったこともある。彼らの「講義」を受けながら、助手席(客の定席)に座っているというのも 若干窮屈なものだ。
さて、ビリニウスを出発した我が白タクは白煙を撒き散らしながら、 夏でも寒々とした北欧の森を長らく走った。(重い灰色の曇空が故郷の空に似ていて懐かしく嬉しかった)
白煙がだんだんと濃くなっていくのを見ながら「やばいな」と思っていたが、 案の定、ロシア製「ボルガ」は激しくノッキングすると、エンストを起こしてしまった。
タクシーの運ちゃんはボンネットを開け、夕方まで修理を試みたが、結局はお手上げ。
曰く「カウナスはあと10kmほどだから、歩いて行ってくれねえか。 俺はこの車を放っておくわけには行かねえ。盗まれっちまうでな」と。
彼は明日、助けが来るまで車と離れられないようだった。
私は彼にカウナスまでの運賃と一晩分の食糧(レトルト食品やインスタントラーメンなど 旧ソ連諸国を旅する場合の必携品)を分けてやり、夜道をヒッチハイクすることにした。
歩きながら後ろを振り向き「車が来ないかな」と期待したが、夜は暗くなるばかりで車のライトどころか、 月の光も見えなかった。
「タクシーから懐中電灯を貰って来ればよかった」と後悔したが、今更のことだった。
とにかく、早くカウナスに着けばいい。もう1時間半も歩いたのだから、 そろそろカウナス近郊の村が見えてくるだろうと思っていた。
ところが「あと10kmほどでカウナス」というのは嘘だった。
暗闇の道はいつまでも続いていた。いや、暗闇そのものがどこまでも続いていた。
夜の闇を恐る恐る歩いていたが、一瞬、足が軽くなったかと思うと、体が宙を泳いでいた。 私は崖から下に転落したようだ。この時の恐怖はいつまで経っても忘れられない。トラウマという言葉があるが、 きっとそのトラウマに罹っている。時々、あのぞっとする浮遊感が夢にも出てくる。
ここはロシア語の世界だから「パマギーチェ」(Help me) とロシア語で助けを求めたが、勿論、何の効果もなかった。
とにかく、よく覚えていないが、ごろごろ転がり「ドン」と何かに体を打ちつけたような気がする。 それから色々な悪夢を見て、最後に天使を見た。
「ついに私もあの世に来てしまったのか。いやはや人生はあっけないものだったな」
青い目の天使が何やら喋っているようだが、最初はわけが分らなかった。
発音は少し訛りがあったが、耳に入ってくる単語は間違いなくロシア語だった。
私はぼんやりとその顔を眺めながら、「天使もロシア語を喋るのか」と感心していた。
その時、急に腰に激痛が走った。その痛みでようやく自分がまだ生きていることに気付いた。
「あら、気が付いたみたいね。母と茸を採っていてあなたを見つけたのよ。 ここは私たちのお家。最初、あなたは寒さに震えていたようだけど、今は熱が出てきている。 暫らくこのまま寝ていたほうがいいわ。私が看病してあげるから」
「いや、カウナスに行かねば.. 」と体を起こそうとしたが、腰の激痛に咳き込み、 呼吸も出来ないほどだった。
私は、暫らくここで静養させてもらうとしても、モスクワに連絡を取って事故のことを伝えねばならない。 「申し訳ないが、モスクワの253-28xxの番号に電話して、スガハラがカウナスの手前で怪我をして、 ここで休ませて貰っていることを伝えてほしい」
「分かった。でも、ここには電話がないから、お母さんに頼むことにするわ。 お母さんはこれからカウナスにあなたの薬を買いに行くことになっている。 カウナスからモスクワに電話してもらう」
「申し訳ない。君の名前は何ていうの」
「リューバよ。スガハラさん、もうお休みなさい」
私は目を瞑りかけて、はっとした。「リューバ、いま君はスガハラさんと言ったね」
「そうよ。だって、あなたは日本人でしょう。死んだおばあさんがいつも日本人のことを話していたの。 とにかく、今はお休みなさい。私はお母さんにモスクワへの電話をお願いしなくっちゃね」
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それから何時間眠ったのだろう。
目が覚めると、もう暗くなっていた。暗がりの中でリューバは私が寝ているベッドに寝そべって、 私の腰をさすっていた。私は慌ててリューバの手を跳ねのけた。
「スガハラ、目が覚めたの? 少し熱が落ちたようね。体中に傷があったから、薬を塗っておいたわ。 お母さんは明日の昼過ぎには帰ってくるはずよ。 さあ、スープを飲んで、元気になってね」と、ベッドから起き上がり、スープを温めてくれた。
「ありがとう。でも、どうしてなんだ」
私は、しんどかったので言葉を縮めたけど、本当はリューバに「どうしてこんなに私に尽してくれるのか。 それに、どうして添い寝などしてたんだ」と訊きたかった。
だが、リューバは、私が「どうして(さん付け)したのか」と訊いていると思ったようだ。
「昔、私のおばあさんはある日本人にお世話になったことがあるの。いつもその人のことを話していたから、 私も日本人には(さん付け)することぐらいは知っていたわ。 おばあさんはその人に命を救われたと言っていたのよ。ところで、あなたの名前はどういうの」
「チ・ヒ・ロ」と説明したところ、「いい名前ね。チウネと似ているわね。 すごく響きがいい」という。チウネとは誰のことだろう。きっとリトワニアの映画俳優かなんかだろう。
それより、私はおばあさんの命を救ったという「その人」に興味を覚え、リューバの話を聞き続けることにした。 リューバは私にスープを飲ませながら、話してくれた。

ディテールはあとで付け加えたが、リューバの話は大体以下の通りだった:
彼女の母方の祖父母はポーランド系ユダヤ人だった。
1940年(昭和15年)の夏、彼らはナチス占領下のポーランドから隣国リトワニアに逃亡してきた。
ユダヤ人はナチに捕まれば地獄の強制収用所行き。リトワニアに逃げ込めば、そこでビザを取って、 外国に脱出することが出来る。地獄から天国への途中にリトワニアがあった。 だが、そのリトワニアも反シオニズム(反ユダヤ)の軍事大国・ソ連に併合される寸前にあり、 ユダヤ人には居場所がなくなっていた。
それでも、彼らはリトワニアからの出国ビザを求めて首都カウナスを目指し、各国大使館・領事館に押しかけた。 まさに難民の群だった。(結果、国内のユダヤ人の人口16万は最大25万に増加した)
日本領事館の前には1万人以上の人垣が出来ていた。在カウナス日本領事は杉原千畝という男だった。 ちなみに千畝はもともと念願であった在モスクワ大使館に赴任する予定だった。 が、ソ連はペルソナ・ノン・グラータ(外交用語で「好ましからざる人物」の意)を発動して、 彼の入国を拒絶した。
彼が在カウナス領事(代理)となったのは1939年。当時、カウナスの在外公館は(ナチスドイツの圧力下) 十分な渡航資金を持たないユダヤ人難民にはビザ発給を拒否していたが、1940年7月、 千畝は日本政府の方針、外務省の指示に背いて、そういう人々にもトランジット・ピザ(通過査証)を発給した。
一字一句の間違いがないよう細心の注意を払いつつ、手書きで最盛期には一日2000人分のビザを発給した。 杉原は手が動かなくなっても、ハンカチで手を縛り、なおピザを発給し続けた。 (計6000のユダヤ人難民がシベリア経由日本に渡った)
貧しいリューバの祖父母もビザを取得したが、そのとき祖母・ヘレナは臨月を迎えていた。
渡航資金を殆んど所持してない妊婦とその夫を見た杉原は「これだけしかないが」と言いながら、 持ち合わせのお金すべてを発給査証に挿し挟んで手渡してくれた。 彼らの目には杉原が神さまのように映った。
ビザを手にしたユダヤ人難民はカウナスから一旦汽車でモスクワまで出て、シベリア鉄道、 ウラジオストク経由、敦賀港、舞鶴港に上陸することになっていた。
夫婦は夜行列車でモスクワに着いた。モスクワでは行き先によって駅が異なる。地下鉄でヤロスラブリ駅へ。 そこでシベリア鉄道(ウラジオ行きの列車)に乗り込む。
夕方、ウラジオ行きの列車がいよいよモスクワを出発しようとした時、ヘレナは夫を残して列車から降りた。 自分と生まれてくる子が長旅には堪えられないと悟っていた。夫だけは助けたかった。
ヘレナはモスクワでリューバの母親を産んだ。名はマリーナ。それは「海を渡る子」という、 親の悲願だった。
千畝が渡してくれたお金がヘレナと女児マリーナを死の淵から救ってくれた。 (リトワニアにおけるユダヤ人の大量虐殺率は95〜97%とヨーロッパで最も高かった。 よそ者のヘレナたちがカウナスに残っていたら、間違いなく殺されていた)
千畝はソ連政府や本国から再三の退去命令を受けながらも、ユダヤ人難民のためビザを書き続けた。
だが、1940年8月にリトワニアはソ連に併合され、同9月に杉原は日本政府から更迭され、 帰国せざるを得なくなった。彼はカウナスからベルリンに向かう汽車の中でもビザを書き続けた。 「ひとりでも多く」と規定外の用紙さえ使った。
その後、41年6月独ソ戦が始まり、リトワニアはそれから3年間ドイツに占領される。
45年、米、英、ソ連などの連合軍はナチスドイツを打倒した。が、すぐに東西の冷戦が始まった。 ヘレナは西側に落ち延びた夫との再会を諦めた。
彼女は女児・マリーナを連れてリトワニアに戻った。チウネ・スギハラを探したが、 その消息を知る者はいなかった。チウネが(現地の人に分かりやすくするため)自らをセンポと称していたことを 思い出して、センポ・スギハラも探したが不明だった。
マリーナは成長し、ロシア人と結婚した。彼女も女児を産んだ。名は「愛」を意味するリューバ。 祖母ヘレナがつけた名だった。その後、マリーナは自堕落なロシア男と離婚した。 そして、老婆ヘレナも他界した。彼女は生前、よくチウネのことを話した。彼は必ずここにやって来る。 リューバの愛はチウネからもらった愛だと..
マリーナとリューバの親子二人の生活は楽ではない。
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私は体がしんどかったが、頭が冴えてしまって眠れなかった。
リューバはスープ皿を脇に片付け、私の額をさすりながら 「スガハラ、私はあなたが来ることを知っていた」という。
私は聞き間違いだと思った。ロシアの秘密警察ならまだしも、 こんな田舎の娘が私のスケジュールなど知っているわけがない。「冗談だろう」
「いや、おばあさんのヘレナがいつも言ってた。スギハラはきっとやってくる。 髪も目も眉も黒くてね。そう、身長はこのぐらいでね。チヒロ、あなたを見てピンときた。
ああ神さま、やっとスギハラに逢えましたって」
「スギハラなんて知らないよ。私はスガハラだ、スガハラ・チヒロだ」
リューバは「いいのよ」と、軽く口づけをして部屋を出て行ってしまった。
私は「知的で美しい娘なのに、頭がおかしい。何かの妄想に取り憑かれているのでは」と心配になった。 いや、崖から落ちて、私の頭がおかしくなっているのではなかろうか、 何かの幻影でも見ているのではなかろうか、とさえ思った。
しばらくして戻って来て「チヒロ、さあ脱いで」という。
私が「グビリ」と生唾を飲むと「このビニール袋にオシッコを入れるのよ」と。
なんだ、なんだ、まともじゃないか。でもそう言えば、崖から転落したあと今まで排尿した覚えはなかった。
とはいえ、ビニール袋にオシッコしろと言われても、そんな経験ないから...
私がもじもじしていると「これで3度目よ。もう恥ずかしがることはないのよ」
それを聞いて私は覚悟を決めた。でも、このビニール袋は「使い捨て」ではなさそうだった。
次の朝が来た。私は眠れぬ夜を悶々としながら、それでも朝方になると寝入ったようだ。
夢かどうかはっきりしないが、リューバが傍に寝そべり、私の全身をさすってくれていたような気がする。 朝になると少し元気になった。
浜に上がった海亀のように床を這いながらトイレに行くことが出来るようになった。 使い古したビニール袋とはもうお別れだ。
明るい光とともにリューバが部屋に入ってきた。「森で摘んできたわ。カーシャ(粥)と一緒に食べてね」と 砂糖をまぶしたコケモモや黒スグリが皿一杯に盛られて出てきた。
凄く酸っぱかったけど、これは美味しかった。
「今朝早くカウナスからトラックがやって来てね、おかあさんの言付けとお薬が届いたのよ。 おかあさんはあなたの会社の人がモスクワからカウナスにやって来るのを待ってる。 その人と一緒に家に帰ってくるそうよ。でも、早くて明日の晩になるって。 傷薬や痛み止めがいっぱいあるからもう大丈夫よ」リューバは楽しそうだった。
私はまだしっかりとは動けなかったが、痛みがだんだんと和らいできたので、安堵した。
しかし、「普通ならすぐに救急車で病院に連れて行かれ、レントゲンやMRIを撮ってもらうはずなのに.. 場合によっては手術とか抗生剤の点滴などもしなければならないだろうに.. 」と少し焦りと不安を感じたが(終わり良ければ全て良し)と自らを慰めた。
何よりもリューバとマリーナの好意にはお礼の言いようのないほど感謝した。
ただ、モスクワに帰ったら、せめてレントゲン検査は受けねばならないだろうと思った。
「ねえ、リューバ、君は仕事に行かなくてもいいのか」
「今日は休暇を取っているからOK。ところで、ロシアは今とても景気がいいんだってね」
「そうだね。ロシアは歪んだ社会主義経済を競争原理の市場経済に変えて、 爆発的なエネルギーを生み起こしているというところかな。石油、ガスも豊富だしね。 ニューリッチや若くて有能なニューミドルが外車を乗り回し、カジノで遊び、パソコンや携帯電話を使いこなして 大都会を派手に彩っている。あるニューリッチが高級外車を一ヶ月もしないうちに買い換えたそうだ。 友人が『どうして』と訊くと『タバコの灰皿が一杯になったから』と答えたそうだよ」
彼女は、どうも、私のジョークが通じなかったようで暫しきょとんとしていたが、 最後の部分がジョークと分って「アハハ」と笑ってくれた。
そのすぐあと「でもね、田舎の暮らしは苦しくなるばかりよ。農業はだめになるし、工場も閉鎖するし、 年金生活者は悲惨、自殺率だけは世界チャンピオン..どうしてこうなるんかしら。 これが市場経済かもね。いやになっちゃうわ」と悲しそうな顔をした。
「それはそうと、これから鶏を焼いてあげるから、待っててね」
リューバが部屋を出て行って暫らくすると、鶏の悲鳴が聞こえてきた。嗚呼、無情!
それから、しばらくすると鶏肉の焼ける芳しい香りが私の寝ている部屋にも漂ってきた。 それを嗅ぐと、やはりこの世は「弱肉強食の世界」だと認めざるを得ない。
憐れな弱者に岩塩をまぶして平らげたあと、焦げ麦茶のようなコーヒーは絶品だった。
少し落ち着くと、部屋の片隅にへしゃげた旅行カバンが置かれているのに気付いた。
中味はすべて無事だった。私は喜び勇んでB5サイズの小型パソコンを取り出し、リューバに見せた。
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「始めて見る」というので、私は得意になってパソコンの使い方を説明した。
残念ながら、この地方にはインターネットが通じてないので、 実際にラインに繋いで説明することは出来なかったが、リューバは私の説明に目を輝かせていた。
説明が一段落すると、リューバは「パソコンを教えてくれたから、今日はお風呂を沸かして、 あなたを洗ってあげる」と腰を上げた。

かまどに火を起こし、大鍋に水を入れ、湯を沸かし、飼葉桶のような浴槽にお湯を注ぐ。 これを何度も何度も繰り返し、ようやく浴槽に半分ほどお湯がたまった。
私の服を脱がせ、自分も下着だけになって、ごしごしと体を洗ってくれた。
リューバの下着は濡れ、真っ白な肢体は湯気に揺れ、体臭が匂いたち、もう胸は高鳴るばかり、 「ああ、神よ、もしおいでになるなら私の心を抑え給え。もしおいででないなら.. 」
さて、この時は神さまがおいでであったようで、(残念ながら)何とか事なきを得た。

「服も全部洗ってあげるから、これを着ていなさい」と、母親の衣服らしきものを着せてくれたので、 気持ちがすっきりして、心も温まってきた。
「日本の歌を教えてちょうだい」という。私は「母さんが夜なべをして..」 「もずが枯れ木で鳴いている..」などを、リューバにもついて行けるように、ゆっくりと歌った。
彼女はすぐに覚えて歌いだしたが、私は賛美歌を聴いているような気持ちになった。
小窓から覗く北欧の夕焼けは、日本のそれと違って、冷たく、愁いに満ちたものだった。

夜になって、私がベッドの中でパソコンにレポートを打ち込んでいると、リューバがやって来て、 毛布にもぐり込んできた。狭いシングルベッドが満員電車のようになった。 「仕事を続けていてね。あなたの体を温めてあげる」と自分の体を押し付けてきた。
「こんな事して、あなたはおかしいと思うかもしれないけど、私のお婆さんはね、 赤ん坊を抱えてどん底の生活を送ったのよ。赤ん坊が病気になっても、お金もお薬もない。 どうしようもなくなったとき、自分の手と体で病を治せることを知ったんだって。 私が病気したときは、いつも体をさすって、抱いてくれた。本当に治ったのよ。 だから、あなたにもそうしてあげる」
私は「そうか」と納得して、暫し仕事を続けたが、知らぬ間に寝入ってしまった。
夜の2〜3時頃、ふと目覚めるとリューバが私に体を押し付けたまま眠っていた。 暗がりに浮かぶ美の女神像。嗚呼、神よ、喜びとは苦しみのことか.. 悶々のうちにまた睡魔に襲われてしまった。 元気な時の私だったら、絶対にあり得ないことだったが..

翌朝、目が覚めると、傍で寝ていたはずのリューバはベッドにおらず、 小さなテーブルに朝食が用意されていて「これから職場に顔を出してくるから、 おとなしく待っていてね。帰りは3時ごろです」というメモが置かれていた。
私は「せめてものお礼に」と、ロシア語で自分の知る限りのパソコン入門書を書くことにした。 レポート用紙にパソコンの絵を描いて、各部の名称、意味、使い方を書いていると時間があっという間に 経ってしまった。

4時過ぎにリューバがジャガイモ、たまねぎ、パンの入った網袋を片手に帰ってきた。
「チヒロ、お腹すいたでしょ。今から用意するから、ちょっとだけ待っててね」
「リューバ、今までのお礼にこのパソコンを君にあげよう。必要なデータはディスクに取ってあるから、 私の仕事に支障はない。ここに使い方を書いておいたから、しっかり勉強するんだよ。 そのうちに、ここでもインターネットが使えるようになると思う。 その時は世界中のどことでも話し合いが出来る。写真だって瞬時に送れるんだよ」
「まあ、お伽噺みたい。これで私の心もあなたに送れるかしら」と嬉しそうな目をした。
私は「君は若いから今のうちにITのことをしっかり勉強したらいい。それに英語も。 この国も今にきっと厳しい競争社会となる。競争社会の中で生き延びるには、 他の人に負けない実戦力をつけておくことだ.. 」とリューバに勉強することを勧めた。
「チヒロ、あなたは本当にそう思うの?」
「そうだよ、厳しい競争社会では、まず自分と家族の生活を確保することだろう。 そのためには自分にしっかり生き抜く力をつけなければ、と思うよ。この世は戦場だからね」
「私は一生懸命勉強したい。力もつけたい。でも、違うと思う。自分の生活のために力をつけるんじゃない。 私自身のためなら、競争力なんか要らない」
「リューバ、それは甘くないかな。競争社会、弱肉強食の世界では.. 」
「勝てなくてもいい。ひもじくてもいい。私はこのまま田舎に埋もれてもいい。 人の足を引っ張ってまで生きたくない。ごめんなさい、私の思い違いだった。やっぱり、 あなたはスギハラじゃなかった。彼は自分の地位や生活など最優先しなかった.. 」

ドアが開いて、母親のマリナが部屋に入ってきた。
「あら、ミスター・スガハラ、だいぶ元気になったね。表に車が待っているよ」
「そうか、早かったね。すぐ行くよ、待たせちゃ悪いから..」
私はそそくさと身支度を済ませ、マリーナに礼を言い、車に乗り込んだ。
だんだんと遠のいて行く粗末な農家を見つめながら、心の中で何かが崩れていくのを感じた。 そして、あれから、自分の生き方も少し変わったような気がする。
奈良の奥山で冷たそうな夕焼けを見るとリューバを思い出す。いつかまたリトワニアに行き、 もう一度リューバと会い、ともに歌を唄い、人生について語りあえれば..

完 伽耶雅人著
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PS:
杉原ビザで日本に入った6000人のうち、外国の親類の送金などで日本を出国できたのは1000人、残りの5000人は日本国内のユダヤ人団体の世話で生活し、戦時中は上海のユダヤ人居留区に送られ、戦後、イスラエルに送還されたという。
尚、リトワニアは通常リトアニアと表記するが、ロシア語でリトワというので、その語にたいする親近感からリトワニアとした。参考まで
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