関東の同窓会、『北窓会』の会報第10号を編者である大田氏より御寄せ頂きました。
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『北窓会』会報
第 10 号
2002年11月 (平成14年)

*大田氏より頂いた原稿はワードファイル形式でしたのでそのまま掲載することが出来ませんでした。
イラスト等もあったのですが、それらは割愛させて頂き、テキストを中心に掲載させて頂きました。

私の幸運な八十有余年の研究
会長 S13年卆 古田道麗     

 平成十四年五月十三日の咲耶会東京支部例会で、大田さんにお逢いし、以前お渡ししてあった「北窓」第十号の原稿四百字詰六枚を返され、記念号だから、私の入学した当時の大阪外国語学校のこと、クラス定員、専門学校だったのか、就職した陸軍通訳生(判任官)とは、作戦参加はどこか、第七九八部隊とはどこにあったのか、ソ連の抑留はどこか、どうして日本大学に就職できたのか、村井教授のことなど、倍以上になってもよいから、若い後輩の方々に分かるよう書きなおしてほしいとの要請で、どうしようかと思案の末、皆さんにさしあげたり、買っていただいた拙著を読まれた方には重複するが、私がキリスト教、イスラム教、仏教、論語、ヘーゲル等の観念史観、摂理史観、マルクス・エンゲルスの唯物史観に対し「人間史観、人間価値、人間論」にたどりついた研究の一部を書くことにした。(拙著「理想社会」「弁証法的史的唯物論の終焉」「人間史観概説」「可変道徳、不変道徳」「道徳教育」「日本の教育改革打開策」参照)

一、研究のため活用できた経験の一部
 ふりかえると、私の八十有余年は小学、中学、大阪外語ロシア語部のクラスの者と比較し、波瀾が多く決して幸運とはいえない一生だった。
 私の入学した当時、国立の外国語学校は東京と大阪の二校で、東京外国語学校は昭和二年より三年制を四年制にしていた。
 大阪外語ロシア語部の定員は十五名で、四年間に一二四単位取得すれば大阪外国語大学を卒業できる単位制よりきびしい学年制であり、遅刻、早退、病欠(授業中
無断で教室をぬけでることなど夢にも考えられない学校であった)は三年間一名もなかったが、二年に進級するとき四名、三年になるとき二名、卒業するとき一名落第し、上級生で落第した者は退学したので、私たちクラスの卒業は八名であった。私たちクラスには年齢差があり、すでに徴兵検査が終り、兵役に関係のない者もいた。八名の就職は関東軍五名、朝鮮軍一名、満州国通信社一名、電信電話会社一名であった。私は関東軍参謀部第三別班に陸軍通訳生として就職した。そこには東京外語卒二名が先輩通訳生として務めていたが、少しも劣等感を持たなかった。私は就職後、新京で徴兵検査をうけ甲種合格となり、習志野騎兵第二旅団第十六連隊に入営した。あぶみなしの馬場馬術で一日百回以上落馬する初年兵教育四カ月を終了し幹部候補生試験に合格し、十六連隊で八カ月幹部候補生教育を終え、甲種乙種幹部候補生に選別され、私は甲種幹部候補生に合格し、伍長になり、習志野騎兵学校幹部候補生隊にて、さらに八カ月の教育をうけ見習士官となり、中国商邱駐屯騎兵第四旅団第七十二連隊に転属、昭和十五年十一月一日陸軍騎兵少尉となった。
 私は短かい期間ではあったが、亳南作戦(中国大陸、隴海線の商邱駅南方百粁に亳県があり、その南方の蒋介石軍との二カ月余にわたる作戦)中原作戦(隴海線の開封より鄭州への攻撃作戦)に参加した。その半年間は、毎日否一瞬一瞬死に直面する先兵長で、部隊の誰よりも敵に近く、一番先頭に立ち、蒋介石軍に突入する玉砕の部隊であり、退却とか捕虜にはなれない、捕虜になれば死を選ぶしかない部隊であり、悠久の大義(昭和天皇のため死ぬ)に生きることを最高の道徳とする部隊であった。即死する者も多数いる中で、戦傷入院のみで、八十有余年生きて研究を続けられ、しかも作戦参加により、いのちがけの戦場も平等ではなかった経験をしたことは幸運であったといえる
 死を見つめての半年間は、私を曹洞宗の坐禅より人間的に成長させ、さらに人生にとり何が大切かを会得したことも幸運であった。入ソ後私は多くのソ連人と話したが、修養している人に逢ったことはなかった。帰国後、大学で自己修養している教授も皆無に近かった。弁証法的矛盾の縮少は修養である。戦場では霊魂はあるのか、戦死した者の霊魂は肉体を離れて靖国神社にいくのか、神は存在するのかの疑問はあった。
 陸軍通訳生のとき、私に日本語の暗号解読を教えてくれた小原少佐に、特殊情報部に転属後挨拶したとき、違う人に逢っているようだと呟かれた。軍隊教育(幹部候補生隊の区隊長は二・二六事件に関係した陸士卒の中尉で一年四カ月の教育は陸軍士官学校と同じであった)と作戦参加の経験は、私をすっかり変えた。
 教育と修養は人間の視野を広くすることを会得し幸運であった。(拙著「人間史観と人生観」「歴史における個人の意義」参照)
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 転属した特殊情報部は私が陸軍通訳生として就職した関東軍司令部参謀部第三別班が関特演により、参謀部より別れ特殊情報部に拡大され、班長田古里少佐から部長大久保大佐(少将昇格寸前)に、さらに昭和十六年末、深堀少将に、昭和十八年末小松少将に変り、小松少将のとき、特殊情報部は特殊情報部隊に編成替えされ、部隊長小松少将以下、ハイラル、孫呉、佳木斯、牡丹江、康徳、ハルビンの各隷下部隊長は隊長章を軍服につけることになった。私が転属したとき、先輩、同輩、後輩の陸軍通訳生はいた。私は転属後、佳木斯第七九八部隊新設により、部隊長菊池少佐陸士卒三十八期の補佐官となり、十七年初頭より七カ月間、奉天の通信教育隊の通信教育をうけ、十八年初め、佳木斯第七九八部隊長となり、昭和二十年八月十二日、東正面の牡丹江部隊に協力すべき命令をうけ、牡丹江に向う列車の中で終戦を知った。佳木斯の部隊にいた通訳生は満州国立大学ハルビン学院卒の者で、昭和十六年仮卒業でロシア語翻訳業務をやってくれたのはハルビン学院生三名であった。通訳生の判任官とは階級的差別で官吏、雇員、傭人、人夫の区別があり、官吏には親任官、勅任官、奏任官、判任官の種類があり、奏任官以上が高等官で、親任官、勅任官は閣下と呼ばれ、高等官と判任官以下は出入口、食堂、手洗所まで別であった。高級官僚になる高等文官試験合格者も最初は判任官であった。陸軍通訳生は通訳官に昇格すると高等官である。
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 時の政府の政策の誤りで(私の意見)八月八日でなく、八月十五日敗北のたった一週間の差で、十一年五カ月間、旧ソ連に抑留され、入ソ後、半年間に、零下三十度、四十度の極寒の中で、平等の肉体労働を要求され、多くの都会育ちの美食の肉体的に弱い人たちが死亡した。私が入ソ抑留されたのは、ユダヤ自治州ビロビジャンとバム鉄道を結ぶ中間地点トイルマ、イズヴェストコーヴァヤで十一年五カ月の大半はハバロフスクであった。
 ソ連抑留で平等の労働要求の誤りを知ったことは幸運であった。極寒の中で、石のように凍った土地を巾八十糎、長さ三米を割りふられ、ソ連の監督の下に、「ツルハシ」で掘りおこす労働は、田舎育ちの粗食の私にも大へん辛く、四〇度の発熱で入院し死の寸前までいき、入院のとき今晩死ぬかも知れないから注意しろとの医者の看護婦への声を聞いた。
 マルクス・エンゲルス共著「共産党宣言」で共産主義者は自分の理論を私的所有の廃止という一語にまとめることができるとしている。(モスクワプログレス発行「共産党宣言」参照)
 レーニン、トロッキー、スターリン、ジノヴィエフ、カーメネフ、ラデック等革命の元勲たちは強権政治の実行により「共産党宣言」に最も忠実に、私的所有を廃止したが、マルクス主義者の理想である平等は物質的平等すら実現し得なかった。私が抑留された昭和二十年はロシアプロレタリア革命により、レーニンが政権についてから二十八年目、五カ年計画遂行中であり、私はロシアのプロ革命後二十八年より三十九年の十一年五カ月間、ソ連共産党の「建て前」平等、「本音」ノルマ制の社会を体験した。経験しない者には理解できないことであるが、ソ連式ノルマは、男性、女性、年齢に、関係なく平等の同じノルマであるので、女性、弱い者、五十才、五十五才にとっては、大へんきびしい労働であった。ノルマ制労働なので賃金もちがい、それを平等にしようとする無理があり、帰国後、日本大学でソ連に自由を許せば崩壊すると講義したり拙著に書いた。ゴルバチョフ書記長の「ペレストロイカ」「グラスノスチ」によりソ連は崩壊した。
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「最終講義」実業之日本社一九九七年十二月発行(総頁五四五頁十九名の学者の一生の研究を凝縮したとみるべき最終講義)二九頁に大内兵衛先生は「何のために経済学を学んだか」の表題の下に「私の財政学の講義でも、すでに暗示しておいたとおり、いまの社会は自由と平等と友愛を理想としているといわれるけれども………このままでは、かりにすべての形式的な自由があり、平等があるとしても、世界のすべての人が同胞のごとく手をとりあって富を生産し富を分つことはできない」と述べている。
 大内先生はマルクス主義者として一生マルクスの「弁証法的史的唯物論」「資本論」を研究されたが、マルクスの平等論からぬけだせなかったといえる。
 曽野綾子さんは平成十二年文芸春秋十月号で「自由と平等」は永遠の悲願であると書いている。フランスのシラク大統領は今年の大統領選で「自由と平等と友愛」を公約としてかかげた。哲学的思索の不足である。
 人間社会の現実を直視すれば、健康、能力、記憶力、胆力、性格、美醜等何一つ平等なものはなく、また政治や人の力により平等にし得るものではない。
 人間は貧しいときは、平等を希望するが、豊かになったとき、平等を希望し自己の所有する財をホームレスの人に平等になるまで分け与えないものである。新聞報道によると東京都だけでもホームレスは二四、〇〇〇名いるという。
 大内先生も曽野綾子さんも自己の財産をホームレスに分け与えたとは聞いたことがない。
 もし二人が全財産をホームレスに与えたとしても、人間社会は平等には絶対なるものではない。
 マルクス主義者は絶対矛盾を資本家対労働者、地主対小作で、この絶対矛盾は革命により解消するとしているが、資本家、地主はなくなったが、レーニン、スターリン、フルシチョフ、ブレジネフ、アンドロポフ、チェルネンコ、ゴルバチョフの七名が革命より崩壊までの七十四年間、書記長、第一書記として支配したが、対立矛盾は消滅するどころか、権力闘争の連続であった。マルクス、エンゲルス、レーニン、スターリン等の著作を精読し、現実と対比すれば、彼等の弁証法の理解の不充分さが理解できる。西田哲学といわれる西田幾多郎先生の「絶対矛盾の自己同一」も現実社会には存在しない。
 弁証法的矛盾は永遠に消滅しないとの理論が私の「人間史観、人間価値、人間論」である。
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 私が哲学的思索と作戦参加、抑留の経験により、拙著や講義で唯の一回も「平等理論」を展開したことのないのは幸運であった。
 プロ革命の元勲が多数「人民の敵、反革命分子」の罪名の下に死刑に処せられたスターリン統治下のソ連に抑留されたが、一九五三年スターリン死後、スターリンを二十回党大会で批判したフルシチョフ時代帰国でき、大学でマルクス理論の誤りを講義できたことは幸運であった。ノモンハン事件で捕虜同数交換によりソ連に残った日本兵は帰国できずソ連の市民になっていた。
 大阪外語でロシア語を修得し、日本の学者の誰よりもマルクス、エンゲルス、レーニン、スターリンの著作を回数多く精読し、ソ連社会の現実との差を、逢ったすべてのソ連人に聞けたことは幸運であった。
 大阪外語ロシア語部に入学していなければ他の抑留者のように、抑留を無料の十一年五カ月の留学にはなし得なかったであろう。
 ソ連抑留中ソ連のスパイになったり密告者にならずソ連抑留者の最終梯団の昭和三十一年十二月二十六日帰国したことは、部下であった人たちより遅く結果的に幸運であった。ハイラル、孫呉、牡丹江、康徳、の部隊長は陸士卒であったが、はるかに早く帰国した。(「沈黙のファイル」共同通信社社会部編一九九六年五月十四日発行によると、陸軍士官学校、陸軍大学校卒の将官、参謀連中のある者はソ連政府に誓約書を書き早く帰国し、ソ連のスパイとして当時の貨幣価値としては高額の報酬月四万円を受けラストボロフの手先になった志位正二参謀の記事もある)
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 昭和三十一年十二月二十六日、四十一才で帰国した直後、元京城帝国大学教授、永平寺貫主の主任随行長で、村の勝楽寺の住職を兼務していた佐藤泰舜先生から「ソ連の実情を知りたい」との声がかかりお逢いできたことは幸運の一語に尽きる。先生は昭和四十一年一月二十八日大本山永平寺貫主となり、四十三年一月二十二日曹洞宗管長を兼任された。
 二時間半にわたり、ソ連の実情、私の研究であるマルクスの唯物史観の哲学的経済学的誤りと私の人間史観を聞かれ、日本大学理事青木孝義教授に紹介していただき、日本大学で七十才定年まで教授として講義したり、拙著を出版できたことは幸運であった。その間教員の冥利に尽きると思ったことは、学生運動のはげしかったとき、指導者であった野中君、得丸君始め多くの学生が唯物史観から人間史観に転向し、後輩に古田史観、古田哲学として申し送り卒業していったことであった。

 日本大学で村井長正教授にお逢いし、親しく定年退職まで交際でき、ともに七十才のとき日本大学より古希の祝をうけたことは幸運であった。先生は東京帝国大学卒業直後より昭和天皇の侍従となられ、今の天皇の赤子のときからの侍従で、私の知らない天皇、皇后皇族のことなど、私を啓蒙し啓発された。
 陸軍での現神(アキツカミ)(この頃読む書籍には皆現人神(アラヒトカミ)となっているが当時は現人神とはいわなかった)に対する昭和天皇の意見、上杉博士の天皇即国家論でなく美濃部博士の天皇機関説でよいとか、天皇が軍を恐れられたこと(拙著「日本の教育改革打開策」参照)等何十年の御交際で知り、「皇国史観」は薩長の藩閥政府の権力の維持拡大、昭和の職業軍人の権力の維持拡大のために、明治天皇、大正天皇、昭和天皇を利用した観念史観であると私は理解し、私の人間史観の理論展開のため幸運であった。(この点については村井教授は意見はのべられず私の意見である)

  二、私の人間科学の研究方法
 自然科学と人間科学の研究方法を同じと考える学者は真理に到達することは不可能であるというのが人間史観の立場である。
 谷沢永一著「人間通」新潮社一九九五年十二月二〇日発行の九三頁に「真理への悟達など金輪際あり得ないのが浮世の現実である。今日の真理はかりそめの思い付きにすぎず、明日も明後日も有効であるとの保証はない。人の世の一寸先は闇であり常に新しい現実に即応しなければならないのに、そんな無限につづく心労は御免だと座りこむ怠惰が世に真理があると夢想する………」と述べている。「地動説」は永遠に変わることのない普遍妥当の真理である。
 彼はこの自然科学の研究方法を人文社会系列の学問に応用し真理を見いだせなかったのである。
 マルクスは自然科学的研究方法で、弁証法的史的唯物論を創造し必然論、段階説で、人間歴史発展の法則=原始共産制=奴隷制=封建制=資本主義制=科学的社会主義制(共産主義)へ進歩するとの理論を展開し、エンゲルスは弁証法的矛盾、質量の変化を物理学により革命論を展開した。哲学的経済学的誤りである。
 人間社会は人間による集団なので人間の能力、意志が働くので必然性ではなく可能性である(一九八五年十一月日本大学生産工学部第十八回学術講演会における私の最終特別講演「人間史観と唯物史観」参照)

  三、歴史に学ぶ
 日本の歴史学者には「歴史に学ぶ」という観念が皆無である。歴史は権力者により自己に有利に捏造されたり、記憶違いもある。
 その文献を自然科学的に証明できないので破棄するのではなく、残された文献を忠実に歴史として記録に残すのが歴史学者の責任であるというのが人間史観の立場であり、「歴史を研究する」ことである。「歴史に学ぶ」とは先祖の誤りを繰り返さないことである。
 例えば神武天皇は古事記では百三十七才、日本書紀では百二十才、第十代崇神天皇は古事記では百六十八才、日本書紀では百二十才、第十四代仲哀天皇は日本武尊の御子であるが、日本書紀によると日本武尊の死後三十六年後に誕生されたとあり、日本の歴史学者はあり得ないこととして古事記、日本書紀を無価値として破棄し文部科学省検定教科書「中学校社会科用新しい社会歴史」の記録は五九三年聖徳太子摂政頃より始まっている。歴史研究の誤りである。
 例えば私の佳木斯第七九八部隊の生きている人たちが書いた記録があるが、昭和二十年八月九日から十五日まで部隊長である私の居場所が同じではない。ある者は部隊にいなかったので大へん苦労したといい、ある者は新京の会議に出席して留守だったという。ある者はハルビンの会議に出席して留守だったといい、ある者は家族が日本に引きあげるため佳木斯駅に集結しているときハルビンの会議から帰り佳木斯駅で逢ったとまちまちである。部隊長は何処にいたか自然科学的に証明できることではなく記憶違いの差である。実際の私は八月八日の新京特殊情報部隊の出先の部隊長会議に出席し、軍人会館に泊まっていた。八月九日未明ソ連の空爆で軍人会館の地下に誘導され翌朝命令で直ちに列車で佳木斯に向い佳木斯駅頭で部隊の家族の人たちに逢ったのである。
 瀬島竜三著「回想録幾山河」扶桑社一九九五年九月三十日発行は五〇五頁にわたる部厚い自伝で「沈黙のファイル」に書かれ、彼が批判された事とか、私の知っている彼の不利なことには少しもふれていない。これは非難されることではない。つまり歴史は個人の自伝でも、国家、民族の歴史でも、すべて美化されているとして研究すべき学問である。
自然科学は考えだした教授が実験しても、学生が実験しても同じ結果がでることにより業績として評価される。先輩の動かない研究の上に、新しい研究を積みかさねていくので必ず進歩する。しかし人間科学=人文社会系列の学問は、自然科学的研究方法では、永遠にかわることのない普遍妥当の真理に到達し得るものではない。(拙著「哲学とは何か」「人間史観と人生観」「階級の立場と人類の立場」「人類社会の発展法則」「歴史における個人の意義」「労働価値説と人間価値説」「進歩と反動」「理想社会への道」等参照)

古田さん略歴(参考)
1915.8 出生
1932.1 豊橋中(愛知四中)四年生でマルクス批判を企図
1938.3  大阪外国語学校 ロシア語部卒業
1938.4  陸軍通訳生に
1938.12  入営
1940.11  陸軍騎兵少尉
1945  終戦時 陸軍大尉(佳木斯駐屯第七九八部隊長)
1956.12  十一年五カ月のソ連抑留より復員。
1956.12  復員後、人間史観研究所を設立
1958.5  日本大学に就職
1985.8  七〇歳定年退職 

  ロシア語をわが人生の
第二の伴侶として六〇年
  S19年卒 山口 慶四郎

 〈一〉 はじめに
 ことし五月に入って妻が急にロシアへ一度行ってみたいといいだした。わが家は結婚以来ずっと犬を飼っていて、妻は長期旅行がままならなかったが、二年半前に最後の一頭が亡くなり、また私の手術後の経過もまずまずなので、それを口にしたのであろう。
 妻がロシア旅行を口にした目的の一つに、親しく交流した元外大教師テレシテンコ教授が急逝して三年も経過するのでインナ夫人を弔問すること、十数年も前に来日のネフスキー教授の遺児エレーナさんとペテルブルグで再会することがあった。早速お二人に電話をし、それぞれ再会の約束を取りつけた。モスクワ留学中の高木美菜子さん(大37回)がインナさんから私たちの訪ロを耳にし、そこでの出会いを期待する旨の手紙が出発直前に届いた。一九八四年春に催された在モスクワ・ロシア語学科同窓会に出席した南雄次君(大19回)にも私たちの訪ロのことがすでに伝わっているらしい。卒業生とのモスクワでの出会いが私の夢をふくらませた。
 今回のロシア旅行、なにもかもうまく運び、どうやら妻も大いに満足したようだ。私はすでに十六回の訪ロ歴があり、今回の十七回目の旅行は考えもしなかったことであった。でも私は、ロシア語の勉強を始めて満六十年を経過したところだったので、秘かにその記念旅行と意義づけたものである。

 〈二〉 一九四二年―外語入学
 私が旧制外語に入学した時は、太平洋戦争下のことで、在学期間はわずか二年半だった。さらにこの間、勤労動員なるものでしばしば学業は中断された。それにもかかわらず、この六十年間ロシア語から離れることなく、一九四七年から二〇〇〇年まで五十三年も大学でロシア語とソ連(ロシア)経済論の講義をし続けることができたのは、何度も幸運に恵まれたことによるといわなければ不正直である。
 私の学生時代の思い出は、『私のロシア語事始―第二次大戦下のロシア語教育』なる拙稿に記されている。これは『わが国における外国語研究・教育の史的考察』(上・下・別冊の三分冊構成)に所収されている。九〇年の外大退職を真近かに控えて、私はこの報告書と同じ名を冠した研究プロジェクトを主宰し、語学を専門としない私も立場上前出のような小稿を書かざるをえなかったのである。この研究会を組織したのは、それまで大阪外大では語学科横断的な共同研究がなかったのを私はかねてより遺憾としていたからである。それに加えて、当時私は『外大70年史』の編集委員長をやらされていて、できればこの年史に前出研究の成果を取りいれたいという着想もあったのである。
 ところで私が外大の前身大阪外国語学校に入学したのは一九四二年四月七日のことである。官報昭和十七年六月九日号には入学許可者として私の名前も載っている。六十年も前は官立(当時そう呼んだ)学校の入学者は少なかったのである。いま国立学校入学者名を官報に記載することは考えられないことである。
 前出の小稿は _、学生時代のロシア語教科書、辞典、参考書などの出版事情、_、当時のロシア語授業、_、当時発行のロシア語雑誌、_、終りに、の四節から成っている。擱筆年月日は一九八九年三月二十日とある。
 紙巾の関係でここでは詳しくのべられないが、_ではいまも手許にある当時使用の教科書、参考書の著者名、発行所、発行年月日、定価などを紹介している。参考書の中でとくにお世話になったのは井桁貞敏著『露語文法詳説』と除村吉太郎著『露文和訳から和文露訳へ』である。前書は橘書店から一九三四年十月に発行され、私が手にしたのは四〇年七月発行の第二版で定価三円(当時きつねうどん一杯十銭)、巻末に第二篇として「ロシヤ語の特徴と歴史」、「ロシヤ語方言の概観」「最近のロシヤ語」の三章が所収されていて、当時としては教えられるところの多い、私の座右の参考書だった。後書も橘書店刊、三六年十二月発行で定価三円八十銭。これは「伝説的な名著」といわれるもので、語学学習書には類を見ない独創的な方法をもつこの書は、私がレニングラード大学に交換教授として出張した時、そこのブガエワ女史によってかの地の日本語教育で利用されていた。
 ほかに八杉貞利、井上敬一共著『露西亜語会話の実例と練習』(太陽堂書店一九四二年二月発行の第七版、定価四円五十銭)は、すでに用紙事情悪く仙花紙に印刷され実に読みずらかったが、愛用の一冊だった。(注 『仙花紙』 手許にある最近の国語辞典にはその説明はない。死語になったのか。昭和三十九年発行の『広辞苑』には「くず紙を原料としてすきかえして作った粗悪な洋紙」とある。裏面の印刷まですけて見え、実に読みずらかった。)
 外国語辞書の良し悪しはその言語を履習する人口に正比例するといってよかろう。私の学生時代には岩波書店発行の八杉編旧版『露和辞典』がすでにあった。初刷は一九三五年発行で購入したのは四一年発行の第五刷(定価九円)であった。この辞書には大変お世話になった。だが和露には難儀した.『露和真髄』の著者である松田衛著『和露大辞典』(東京堂三三年第一刷発行、手許にあるのは四〇年発行の第三刷で定価八円五十銭)は、正直いって無いよりましというものだった。これでロシア語を探り、前出岩波の露和を使って正確な和文露訳をした。戦後になってだんだん立派な和露が出版されるようになったが、それでも来学のロシア人教師はこの和露に目を通して首をかしげていたものである。

 〈三〉  ハルビンとロシア語
 私はハルビンにいったことはないが、学生時代ハルビンから発行される出版物に大いにお世話になった。まずは日刊紙『ハルビンスコエ・ブレーミヤ』、これは関東軍の特務機関の影響が強くにじみ出ている新聞だった。私はこれを定期購読した。これまた仙花紙で読みずらい新聞だった。在学時代、学校にはソ連紙は『イズベスチヤ』だけ届いていたが、これは岩崎教授が管理して、学生は手にすることができなかったのである。
 ハルビン書房は、レールモントフ『現代の英雄』、ツルゲーネフ『貴族の巣』、ゴーゴリ『外套・狂人日記・幌馬車』、チェーホフ『決闘』、プーシキン『大尉の娘』を「古典中の珠玉篇」と銘うって一円から二円の定価で発行した。いずれも手にした。
 このハルビン書房から、私が入学して最初の夏休みに入るころ、『実用ロシア語』という月刊誌が創刊され、早速に定期購読したことも特記しておかねばなるまい。一九四二年八月十五日発行の創刊号(定価五十銭)の巻頭文「露語時評」は、「いろはから出直せ」なるタイトルで、ロシア語のアルファベットの数を、米川正夫著『簡易露語入門』を除き日本内地のすべての教科書が三十一文字としているのは大間違いだと指摘、満州で発行の教科書にはさすがにこんな幼稚な誤りはない、ロシア本国ではもちろん三十二(ママ)字と正しく字数を示している。三十一文字は日本学者の創作だと断じたのである。そして、こんな見苦しい不勉強家がいてはわが国の露語研究は進歩しないと警告したのである。これに私は大きなショックを受けた。
 この雑誌には当時ハルビン学院の少壮教授で、戦後のわが国ロシア語学界の重鎮の地位を占めた染谷茂氏による「文法小話」(六回連載),「休憩室」(これも六回連載)、それに相沢利氏執筆の連載「観る眼・学ぶ眼」が掲載されていて、先にも書いたように勤労奉仕などで授業がよく欠けたので、たちまち私の良き教師となった。
 『実用ロシア語』誌は、四四年六月号まで通刊二十号が発行され、うち第十九号を除く十九冊がいまも手許にある。満州在住者を中心に購読されたであろうこの雑誌の原本をこれだけ所蔵しているのは珍しいと思うし、私にとっては貴重な宝物である。
 ついでに記すと、東京でも橘書店が『ロシヤ語』誌を発行していた。四二年七月に発行された号の編集後記には、「本誌を読んで下さる皆さん、殊に兵隊さん達にはいつも感謝しながら原稿を書いています」とあるから、軍隊でロシア語教育を受ける者たちも読者対象にしていたのであろう。日本におけるロシア語文献の出版活動は、日露戦争時、ロシア革命時―シベリア出兵時に盛んであったが、その第三の活況時は日本の中国東北部への侵出時に始まる。軍事的膨脹時にいつもロシア語学習が活況を呈したことは、なんとも忌まわしいことである。この雑誌も若干の欠号を除き、四四年一月号(第十二巻終巻号)まで手許にある。この雑誌には小野六郎訳注「桜の園」が連載され、大いに勉強させてもらったことがなつかしい。
 さらに一筆しておくと、ハルビンからではないが、満鉄弘報課も露語文芸書として、夏目漱石『こころ』、『坊ちゃん』、芥川龍之介『地獄変』、菊池寛『恩讐の彼方に』、火野葦平『麦と兵隊』のロシア語訳を発行していた。『坊ちゃん』の訳者はグリゴリエフ氏、装丁はあのブブノワ女史だった。満鉄はまた露文季刊誌『東方評論』(四六倍判すなわち現在の週刊誌大で定価三円)も発行していた。それを毎号買うことはできなかったが手許にある第十五号(一九四三年四―六月号)は全二六二ページのうち、当時朝日新聞に連載された岩田豊雄『海軍』の前半訳が一六〇ページも占めていた(訳者は前出グリゴリエフ氏)。

 〈四〉 海軍とロシア語
 戦争中だったので卒業してすぐに軍隊に入らなければならなかった。私は海軍が学生時代の専攻をある程度考慮してくれると耳にしていたので、その予備学生を志願した。学生時代、教練で小隊長や中隊長の役をいつもやっていて配属将校も私が陸軍に入るものと思っていたようだが。実は私は「軍人勅諭」なるものをまるっきり覚えていなかったし、覚える意志もなかったのである。前後するが海軍ではそれを覚える必要は全くなかったのである。
 四四年十月一日、旅順の学生教育部で私は短劔をつった。そこでの五ヵ月間の教育は三八四時間の座学と二〇一時間の実技、座学は砲術や航海術、通信術、機関術、兵術などという軍事学のほか、普通学として物理学や数学もあり、全体として理系中心の座学だけで現在の大学制度でいうと二十六単位分を五ヵ月で履習するのである。実技は陸戦や短艇だ。夜は夜で一時間四五分の自習時間があり、きわめてインテンシブな教育内容だった。
 これは大変なことになったと思っていたところ、入隊して間もなく、分隊監事の中尉に呼びだされ、「至急にロシア語の図書や辞書を留守宅から取り寄せろ。自習時にはロシア語を勉強せよ。そのため座学の成績が悪くても大目に見る」と告げられた。入隊まえに岩崎教授から「いつでもロシア語関係図書を取り寄せられるよう留守宅に準備しておくように」とのアドバイスがあったが、海軍と教授のあいだで予め話し合いがなされていたのである。
 旅順で手にした図書の一冊にゴーリキーの『どん底』がある。これは上海発行のもので、在住亡命者のために出版されたものらしく旧正字を使っていて、ロシア語による多くの書き込みがあった。これを私は神戸の中山手通りに当時あった古書店『マトヴェーエフ』で買い求めた。私は学生時代の夏休みに定期券を買って神戸に出かけては路上で会うロシア人によく話しかけた。なかには自宅に招き入れてくれてお茶をよばれることもあった。会話のロマエフ先生にそれを話すと、あの人と交際しても良いが、この人は駄目だ、正しいロシア語が使えなくなると注意を受けたものである。この時によく出入りしたのが前記古書店なのである。閑話休題。
 旅順での基礎教育が終わり、四五年三月から三ヵ月間、神奈川久里浜にあった海軍通信学校で特別通信、対敵通信解析と敵通信暗号解読の教育を受けた。この業務の特殊性によるのだろうが、教官には海兵出はおらず、すべて学生出身の士官によって教育が行なわれ、他とは異なる気風があった。ソ連軍の通信方法、暗号の組み方などについては外語で一年先輩の小島清明少尉に教わった。
 六月一日には海軍少尉に任官(この月の二十八日生まれの私はまだ満二〇才だったので現在の大学では三回生だ)、第十二航空艦隊司令部付という辞令を手にしてまず大湊(青森県)にある警備府に出頭、さらに艦隊司令部があった千歳空港に向った。どうやら千島列島最北端の占守島に派遣されることになっていたようだが、大湊、千歳からそこへ私を運ぶ空便がなく、結局、北東方面航空隊傘下の樺太上敷香(かみしすか)にあった航空基地に着任した。私を迎えてくれた基地長は三年先輩の久堀通義大尉だった。
 当時の日ソ国境(北緯五〇度)からそう遠くないところにあったこの基地で、モスクワから極東向けにラジオで送られてくる短波による新聞報道を聞き取る、いってみればディクタントが最初の仕事だった。それから極東にあるソ連空軍の動きを暗号通信解読で知る仕事にもついた。ソ連がドイツと死闘を続けている時、米国はアラスカからソ連のアナドィリに軍用機を援助輸送していた。ところが五月九日にヨーロッパに平和がもたらされた後もこの輸送線―われわれはこれをソ連の担当司令官の名を冠してマズルク線と呼んでいた―を使っての米国の軍用機援助が止まない、それが極東地方に滞留しだしたのである。上敷香基地ではソ連のどの軍用飛行場に援助米機が飛来したか、その機数、その移動を把握していたのである。この作業の結果は逐一艦隊司令部を通して海軍軍令部(大本営海軍部)に報告されていた。ソ連の対日参戦近しの情報を掴んでいたのである。後に明らかになったことだが、ドイツ敗北の三ヵ月後、モスクワ時間の八月八日(日本では九日)までにソ連が対日参戦することになっていた米英ソ三ヵ国のヤルタにおける秘密協定を日本は知らない。八月六日の広島への原爆投下、ソ連の参戦。われわれはいったん国境方面に前進したが、その後在樺太海軍部隊は北海道に引き揚げ、私は千歳で復員命令を受け八月末日に海軍の門を後にした。
 約十一ヵ月の海軍生活、私はおかげでロシア語から離れることはなかったのである。

〈五〉 大阪府嘱託を経て和歌山で教職に
大阪の豊中市にある兄宅に無事に帰宅したが、卒業時に就職した満鉄(南満州鉄道株式会社)はすでに消滅している。しばらく静養しようと思ったが戦後インフレがたちまち襲い失業状態を続けることができない。この時(九月初め)大阪府がなにを慌てたのか英語通訳とともにロシア語通訳を募集との新聞広告を目にした。
 早速に応募、ペーパーテストを終え、ロシア語会話の試問に臨むと、試験官はなんと岩崎教授。先生は私が樺太から無事復員したことを筆記試験の採点で初めて知り驚かれたらしい。「よく帰ってきたな。十時先生は辞められ、この四月に入院中の片岡君を教員に採用した。こんな形で早く戦争が終わるとは思わなかった。担当職員には採用するよういっておく。」こんなことを仰言った。もちろんロシア語である。同席の府職員にはわからないので適当にロシア語で答えろと冒頭にいわれ、私もあれこれロシア語で答えた。
 府庁に勤めても仕事は当然のことながらない。時に食糧課に頼まれて府下在住の白系ロシア人家庭に食肉の配給券を渡しに出かけるのが唯一の仕事だった。しかも高給。岩崎先生からは、しっかり勉強して、どこかで教職に就けるまで我慢せよとのことだった。
 府嘱託を勤めて一年半、一九四七年三月も半ば過ぎたころ、岩崎先生がわざわざ職場にこられ、和歌山経済専門学校助教授のポストがあった、校長とはすでに話がついている、あとは挨拶に行けば万事うまくいくとの有難いお言葉。早速に面接に出かけたのはいうまでもない。
 和歌山に赴任して初めて知ったことだが、経専の前身和高商と外語の教員間にはスポーツなどで交流があり、またロマエフ先生も外語就任の前に高商で会話教師をやっておられたのである。つまり戦前のある時期、ここでは外国語教育でロシア語が取りあげられていたのである。
 私は和歌山経専に勤めるようになって、これが専門学校(のちに大学)だと痛感した。のちに外大に勤務してから間もなく、当時咲耶会広島支部が発行していた『扉』誌から求められた小稿にそのことを記述したことがある。経専の建物の多くは米軍管理下にあり狭隘だったが、それでも相部屋の研究室が与えられた。間もなく管理がとけると個室研究室に入れた。創学時に形づくられた伝統というのは恐ろしいものである。研究者の第一歩を和歌山で過ごせたことはまことに幸運だったといわなければならない。
 研究重視の校風があるので、新米教員の私は間もなく京大文学部に内地研究に派遣され、言語学教室の泉井久之助教授の指導を受けに週のうち二、三日通うことになった。当時よく停電があったが、京大には自家発電装置があり、そのためか泉井教授はなかなか帰宅されない。広い教授の研究室の一隅にテーブルを与えられた私もいったん研究室入りするとお先にと簡単に帰れない。フランスの言語学者ソシュールの原書講読は午前八時からで、私も相当無理してそれを聴講したものである。
 この内地研究の最後に泉井教授(なかなか厳しい先生だった)から報告論文の提出を求められた。ロシア語史について書いたのが私の最初の論文である。これは間もなく活字化されるのだが、この作業は私に大いに幸いした。というのは、この頃高等専門学校が新制大学に移行することになり、私はまだ駆け出しの研究者だったが、この未発表論文があり、それも泉井教授に提出のものということで大学助教授の資格認定を受けることができたのである。(新制への移行にあたって高専教員は中央に設置された大学設置審議会で資格認定を受けた)。
 和歌山大学は大外大と同様に一九四九年六月に発足するのだが、初代学長予定者として赴任してきた経専校長は、助教授以上の認定を受けていない教員は、新制大学に移行させないと宣言したのである。私は幸いなことに大学発足と同時に経済学部講師(常勤)の辞令を手にした。師範、青年師範の教員の半数以上が大学に移行できないということで大混乱したものである。このような措置がとられて大学に移行した国立学校は数少なかった。あれこれの問題はあったが、和歌山大学も創学時に研究重視の学風が確立されたといえる。

 〈六〉 世界経済講座に移籍
 教員生活にも、土地にも慣れてきた頃、関西の某国立大学(総合大学)の教授から書簡をいただき面接すると、前出泉井教授から推挙がありロシア語担当の助教授に迎えたいとの有難い話、中学四年修了の時に受験し不首尾に終った大学に教員として、それも助教授で迎えるという。正直いって私の心は躍った。しかし和大経済学部の先輩教授に相談すると反対され、君は語学教師で終ってはならぬ、折角ここにいるのだから若い学問である社会主義経済論、それにソ連経済論の研究者になれとの励ましの言葉、学部長さらには学長も間もなく転身に賛成され、その研究に取組むことになった。
 ソ連のシベリア抑留から帰国後、ソ連経済の分析をゼミナールでやっておられた大阪市大経済学部の岡本博之教授のところに出入し、ゼミ生に特別にロシア語を教えるという交換協定(?)も成った。ソ連経済に関する処女論文を大学創立記念号に掲載、幸いそれが歴史学研究会の機関誌で肯定的に評価されていることが同僚教員の知るところになり、一九五三年から世界経済講座でソ連経済論を担当することになった。五四年秋には参加する国際経済学会に所属するソ連経済の研究者十名の共著『ソヴェト経済の分析』(勁草書房刊)に執筆した。その後、全国の国立新制経済学部の先頭を切って和大に大学院経済研究科が設置された時も、その担当資格をえて講義を担当した。
 一九六二年から母校外大で非常勤講師としてソ連経済論、経済書講読を担当することになった。北窓会の世話を願っている大田憲司君(大11回)はその初期に受講した学生の一人である。
 週一回の大阪行きは楽しかった。学生諸君からはたちまち不徳にも「コンパ好き」の先生とレッテルをはられた。外大出講が楽しかったもう一つの理由は非常勤講師室で外大卒でない他大学教員からあれこれ耳学問できたからである。ロシア語研究室の鍵を渡されていたが、非常勤の分際でそこに自由に出入りすることが納得できず、そこにはあまり足を向けなかった。

 〈七〉 ロシア語を「読む」のが中心の和歌山時代
 和歌山市は街道筋から外れたところにあるので、そこで在職中はもっぱらロシア語を「読む」ことに終始した。「書く」ことはまずなかった。その頃の思い出としては、私は教員組合運動にたずさわっていたので上京の機会がよくあり、その都度丸の内の南側にあった三菱村に足を向けたものである。当時日本はまだ米軍の完全占領下にあり、ソ連の駐日代表部の一部がそこにあったのである。この建物の一室でソ連の新聞雑誌や図書が展示されていて、それらを購入することもできた。『経済の諸問題』誌を軽い財布をはたいて買い求めたものである。一九五二年夏からは神保町にあるナウカ書店を通じて定期刊行物を予約購読できるようになり、私は前記雑誌や『プラウダ』紙の直送を受けるようになった。
 ロシア語を「話す」機会はまことに少なかった。外語のイーヤ・レベジェワさんと知り合い、たしか戦後初の語劇『検察官』が大手前会館で上演されるというので彼女から招待を受け鑑賞したことがある。いまと違って満席の盛況だった。
 当時、和歌山、下津には極東からの北洋材、ウクライナからの鉄鉱石を積んだソ連船が比較的多く出入港した。私は和歌山で日ソ協会(現日本ユーラシア協会)の代表をやっていたので、度々会員と訪船したり、船員と市内で交歓したものだ。これでロシア語会話を楽しんだ。またソ連からやってくる親善使節団を時に和歌山に受け入れ交流した。有名な映画監督のドンスコイ氏とこの時知り合い、その後モスクワで再会を果した。一度は機関士出身のソ連最高ソビエト代議員がやってきた。その時には和歌山の国鉄労組から一緒に機関車に乗りませんかと誘われ、菜っ葉服を身につけ紀三井寺と御坊の間で釜たきをしながら会話したのが忘れられない体験である。
 従兄が合化労連の役員をやっていたので、ソ連の労組代表が関西にやってきた時に通訳をやったことがある。四日間ぐらいだったか、辞書をカバンに入れてそれをやったものだ。その後、語学・文学専攻の通訳より社会科学をやっているお前の方が話がよく通じると、再度その依頼があった。この時は夏休み中だったので、関西、東海、関東を十日ほどお付き合いした。この二度にわたる通訳の副産物は、昭和電工など日本の代表的企業の工場を見学できたことである。後にソ連にでかけた時にできるだけあちらの企業現場を視察するように努めたが、おかげで日ソの工場現場の比較ができて大いに有効であった。

 〈八〉 ソ連、ロシアへの旅
 私がソ連を最初に訪れたのは一九六三年ソ日協会の招待による。いや、実はその前にすでに一度訪ソしている。それは四七年八月のこと、無旅券、無査証でナホトカを往復した。実は日本海軍には百二十隻ほどの艦艇が敗戦時に残されたのである。といっても本格的な軍艦はわずかの駆逐艦で、海防艦などその他艦艇が多くを占めた。それを米英中ソの四ヵ国に平等に分配し引き渡すことになった。
 前出の元海軍大尉久堀先輩がその作業のロシア語通訳陣の中心になられたので、ロシア語を解する元海軍少尉の私を推挙され、進駐軍の命によりナホトカに行くことになったのである。もちろん勤務校の諒承をえたうえで。技術用語の露訳ノートを作成し、私は佐世保から海防艦に乗りこんだ。元海軍士官の私、用務をおびて初めて軍艦で航海したのである。当時のナホトカの埠頭は丸太を組んだお粗末なもので、ナホトカは一寒村と見受けられた。陸上ではシベリア抑留者が労働するのが望見された。二年前に間一髪のところで私もこのような運命になっていたのかと、改めて幸運をかみしめ、感無量だった。
 話を第一回目の正式訪ソに戻そう。当時は商社員などを除き海外渡航者の数はごく少なかった。とくにソ連へ国立学校の教員が行く時は、年次休暇の手続きをし、その日数をこすと賃金カットされたものである。和歌山大学の事務局は私のソ連行を出張費のつかない私事出張にすべく文部省に折衝してくれたものである。
 この時はモスクワ、レニングラード、ヴォルゴグラード、ソチ、ガグラ、トビリシ、ハバロフスクを二十八日かけて駆けめぐった。そして当時のソ連の肯定的な面と否定的な面とを垣間みた。なにしろこの頃は人口一人当たりの国民所得で日本がソ連より低かったし、ドル三六〇円の時代だったのである。
 実はその前年秋にリーベルマン教授が『プラウダ』紙上に論文を発表したのを契機にソ連の誌紙上で利潤論争なるものに火がついたのである。わが国にもこの論争が輸入され、『エコノミスト』誌上で「ソ連に資本主義が復活の兆し」と、いってみればリーベルマン教授批判の論調が高まっていたのである。私はこの招待旅行中に見学したいくつもの工場で企業長ら幹部にこの問題につき見解を求めた。でも回答は、この論争はどこ吹く風とまったく関心を示さなかった。私がこの旅行中に学んだことの一つは、活字の上だけのソ連研究は危険な結果を生むということだった。目耳口を駆使してのソ連研究でなければならなぬと肝に銘じたものである。
 この時私は三十七才でまだ若かった。朝食前、夕食後の自由時間に予めマークしていた所を尋ね歩いたものである。例えばレニングラードではチャイコフスキーら著名人が葬られている墓地、そこへ行って隣接するアレクサンドル・ネフスキー修道院にもぐりこみ、多くの信者がお祈りをしている光景を目にした。宗教活動がおこなわれているではないか。この時の通訳は全旅程モスクワ大学のイリーナ・カパルキナさん。彼女は、私が面白い所に足を運ぶので、モスクワ以外ではいつも私と行を共にしたものである。彼女、その後神戸外大に会話教師としてやってき、再会を果すことができた。
 二回目の訪ソは、外大に戻ってから一九七三年のことである。この時は文部省の短期在外研究員としてモスクワにある経済研究所に出張した。国立大学教授は等価交換でなければ受けいれられないと、その出張は難航した。結局ソ日協会の仲介で出発できたが、おかげでモスクワの宿所は最高級ホテル『メトロポーリ』、位置的には最上だが、文部省から支給された出張費では足がでる。そこで、ポーランド、チェコスロバキアに一時避難(?)したものだ。この時に日経のモスクワ特派員だった斉藤哲君(大12回)にあれこれ世話になった。一九八三年三月二十一日の日経紙には、斉藤君の薦めによる『私の留学体験』(連載記事)なる小稿が載っている。
 三回目の訪ソは一九七七年秋から約一年間、大阪外大から交換教授としてレニングラード大学への出張だった。この時はルーブリで賃金支給を受け、当然のこととしてルーブリによる生活。これでソ連の実生活をより深く理解することができた。この時には息抜きにフィンランドにも出かけたし、ブルガリアにも十日ばかし旅した。ブルガリア行きは、当時ソ連が現段階規定を「発達した社会主義」国としていたのを、世界からソ連に忠実な衛星国とされていたこの国のイリバジャコフ教授がそれを批判的に論じた著作を発表したので、ぜひ同教授にお会いしたいと思ったからである。休暇で避暑のため黒海沿岸に滞在されていた教授とのまる一日の裸姿での率直な対談は興味盡きせぬものがあった。
 その後ことし六月まで計十七回彼の地を訪れているが、ペレストロイカ時の私のソ連社会観は「社会主義と似非(えせ)社会主義の錯綜した、複雑な混合体」というものであった。一九八八年末にソ日協会の招待でペレストロイカ下のソ連の実情をしかと目にしてきたが、すでに困難、混乱の模様が露呈していた。そして一九九一年にはソ連崩壊、万才とは叫ばなかったが、一国社会主義建設論に無理があったのは事実としてこれを冷静に受けとめたものである。
 創造も難しいが破壊もまた大変である。九〇年一月九日の読売新聞はコメコン存亡の危機に直面しているという大きな見出しの記事を載せたが、そのコメントを求められた私の発言の小見出しは「解体すればソ連は弱体化」となっており、ゴルバチョフはいっそう危機に陥るだろうという言葉で私のコメントは終っている。もう一人のコメンテーター(在関東の研究者)は、コメコン解体はソ連にとって荷物を軽くする意味で望ましいとした。コメコン諸国は極端な国際分業体制をとっていて、これは確かに大きな否定的な問題であった。例えばソ連はエネルギー供給国だった。ロシアの都市で走る箱型の、車体が黄色のバスはハンガリー製であったのである。現在そのバスの輸入がとまり、それを見かけることは少なく、地下鉄を除く都市公共交通機関は大幅に縮小、市民の足は大変な不自由に見舞われている。破壊もよくよく考えてやらねばならぬ好例である。
 もう一度繰り返す。外国研究は目耳口を十分に駆使しなければ成果を期待できないのである。

 〈九〉 一九六九年、教授として母校に戻る
 筆さばきが前後したが私の母校復帰に話題を移そう。実はこの話、六八年春就任ということで持ちこまれたが、この時はすぐにお断りした。正直いって和歌山大学の研究条件が捨て難かったのである。二十年余の在勤中に図書館に体系的に収めた研究図書との決別がなんとも辛かったのである。その後このポストをめぐって自薦他薦の候補が何人もあったと後に高橋輝正教授(旧3回)から耳にした。
 ところが六八年秋になって再度の要請があった。母校では語学中心の教育体制から、その言語を使用する文化圏の文学、歴史、政治経済をも視野に入れた多角的な教育研究体制の確立という動きが教員、学生の双方で高まりつつあることを非常勤で出講中の私はもちろん承知していた。
 私は決断した。他大学勤務の経験を活かしてお世話になった母校のために働こうと思った次第である。赴任して翌年春にまだ学園紛争の余燼が残るなか学生部長の大役を仰せつかった。当時の学長代行は牧祥三教授(旧D3)で、牧先生も第七高等学校、鹿児島大学、立命館大学の教授を経て外大着任はまだ数年にもならない方だった。和歌山大学創立時のあれこれを先に少し触れたが、先生も私も勤務大学誕生が有痛分娩だったことを体験している。それに対し外大は一つの専門学校が単科大学に昇格したものである。外大誕生は無痛分娩によるわけで、ある意味でそれだけ否定的な面をひきずっている。私は牧教授に協力して大学改革に取り組んだ。紛争もなんとか収まり外大移転問題が現実的に大きく取りあげられるようになったのもこの頃のことである。
 結局外大には一九九〇年に定年退職するまで二十一年間(非常勤時代を含めると二十八年間)在職した。この間外大改革も進み、すべての語学科でゼミナール制度も導入された。箕面へのキャンパス移転も実現した。ロシア語学科についていえば、一九六八年からソ連高等教育省から教員派遣が始まったことは特筆すべきことであろう。その初代はレニングラードからのガリーナ・ピャドソワさん、いまも彼の地で私は時に会って旧交を温めている。来日教師のほとんどは、ソ連各地の大学で外国人のためのロシア語教師をやっていた専門家である。ソ連崩壊後は外大が主体的に公募して専門家を求めていると聞く。
 私が外大勤務の末期に図書館長をやったものだから、図書館屋上や地上に四本のパラボラアンテナを立て、日本の衛星放送、CNN、それにソ連、中国の通信衛星放送を視聴できる設備をした。図書館内はもちろん、大学のすべての共同研究室などでそれを視聴できるようにしたものだが、いまも有効に使われているのだろうか。
 退職が迫っていたので私は自宅にもそれを設備し、オスタンキノTVを書斎で見られるようにした。ソ連崩壊の前後には事ある毎に新聞記者がこのTV視聴がてら取材に来宅したものである。
 私は外大退職後の九〇年五月から日ソ協会(後に日本ユーラシア協会)の機関紙に『ソ連TV(後にオスタンキノTV)で見る最新情報』の連載を始めた。残念ながらそれは第百四稿目の九五年三月十五日号で連載は終わった。自分で書くのもどうかと思うが、この連載はおかげで読者に好評だったが、編集部からの終了通知にあれこれその理由がのべられているなかで、「(いまのロシアの)政治情勢は暗いイメージばかり与え、(読者が)暗い気持になる」とあったのが本当のところでなかったかと今も思っている。
 最後に外大に転勤して大きなカルチャー・ショックを受けたことも一言しておかねばならない。ご承知の通り、経済学部なるところは女子学生率の一番低い学部である。和歌山時代に毎年私のソ連経済論を受講した二百名近い学生のうち女子学生は年によって一、二名という状態だった。薬学部、文学部、それに家政学部はもちろんのこと女子学生率は高い。外国語学部もその傾向を強めていった。母校ロシア語学科をみると私が非常勤講師として外大に勤務した一九六二年春の卒業生二十四名中、四名(一六・七%)が、教授に戻った六九年春の卒業生四十二名中、八名(一九・一%)が、さらに定年で退職した九〇年春の卒業生三十四名中、二十六名(七六・五%)が女子学生であった。ソ連経済専攻の山口ゼミにも多くの女子学生が受講、彼女たちがゼミの進行をリードしたものである。こんなことでゼミのコンパが梅田のディスコを会場にすることもあり、私も体型を少しは気にしながら、ホールで彼らと踊り狂ったものである。そこには、和歌山時代のゼミ生が考えられない「変容した山口」の姿があったのである。

 〈十〉 おわりに
 外大を退職してからも一九六七年から引き続き天理大学国際文化学部にソ連・東欧経済論、経済書講読を担当して非常勤で二〇〇〇年春まで出講した。いまは毎週一日神戸に出かけて兵庫県日本ロシア協会の講座でロシア史を受講生と読んでいる。まだロシア語から離れられないことはまことに幸せといわねばならない。
 日常生活もおかげで現役時代とまったく変化がない。この点文系の大学教員を四七年から二〇〇〇年まで五十三年間も勤められたことに感謝している。一昨年暮れに大きな手術をして以来も目下のところ再発はない。私は能勢電車沿線に住んでいるが、それに乗って市の中心に出かけたり、さらに阪急電車に乗り継いで大阪、神戸へ出かけた回数はことし一月から九月までに百六回、昨年は同期間百八回だった。これも教員時代に学生諸君から若さを収奪した結果と感謝している次第である。
 筆を擱くに当たって私の学生時代の師である今は亡き岩崎兵一郎先生、十時維親先生、アンドレイ・ロマエフ先生に深甚なる謝意を表する。
 思えば母校外大はことしで創立八〇年を迎えた。私はそのうち六〇年間ずっと母校を内外から眺めてきた。母校、それにロシア語学科の弥栄を念じること切なるものがある。また、北窓会、アヴローラ会に結集する卒業生諸兄姉のますますのご発展、ご健勝を心から念じる。
(〇二〇九一三)

  <付記>
  本稿執筆を依頼されたのは昨年十月のことである。『北窓』の貴重な紙面にこのような小稿を掲載していただいたことに対し、編者大田憲司君に心より感謝するものである。

山口さん略歴(参考)
1924.6 出生
1942.3 京都府立一中卆
1942.4 大阪外国語学校 露語部入学
1944.9 大阪外国語学校 露語部短縮卆業
1944.10 満鉄入社、同時に海軍予備学生として旅順で入隊
1945.6 海軍少尉
1945.8 復員
1945.9 大阪府嘱託
1947.4〜1969.3 和歌山経専・和歌山大学
1969.4〜1990.3 大阪外国語大学
       この間、大阪市大、関西大学、天理大に非常勤で出講

外大時代を思い出し乍ら
 R二部・S52年卒  小宮 晃

私は大阪外大へ入学し、大阪で学生生活を始めるまでは、当時、関東地方のあちこちに点在していた在日米軍基地で、所謂、駐留軍労務者として外人相手の仕事に携わってきた。千葉県の臼井基地に端を発し、東京の立川基地を離職するまで、十五年近く働いてきた。そして、こんな仕事をし乍らも欲みたいなものが湧いてきて、常に頭にこびりついて拭うことが出来なかったことは、どんなことをしても外大に入りたいという強い願望であった。外大へ行くことだけが唯一の目標であり、その夢の実現にすべてを託し、只、それだけに望みを繋いで毎日を過ごしてきたといっても過言ではない。生噛りの英語力で何とか飯を喰っていた半端者の私は身の程知らずと思われるかも知れないが、伝統ある外大で学び世間で通用するような語学力を身につけたかったのである。何回も東京外大で門前払いを喰らった後、藁にでも縋りつきたい思いで受験した大阪外大に拾われて念願の外大生になることができた。「本当に良かった、嬉しかった」。いや、そんな月並な言葉でこの時の喜びをとても言い表わせるものではない。
何か必死になって救いを求めていた時に、幸運にも命網を投げて貰って救助され、ホッとした思いで胸を撫でおろしている心境であったと言う方が、その時の自分の気持を表現するには遥かに的を得ているように思う。
*       *       *
外大に入学できたその年の三月に、私の働いていた立川の米軍基地も日本政府に返還されることになり、我々、駐留軍労務者も解雇され、失業者になった。その代わり、今度は憧れの大阪外大の学生さんに変身することになった。それから五年間、大阪で生活することになるが東京、大阪間をどうやって通えば良いのか、随分と迷った。家族が一人もいない天涯孤独の私には家の留守番を頼む人もいないし、大阪へ行ってしまった後の家の後始末をどうしようかと、東京の中野に自宅があり、大学は大阪、どう考えてみても距離的に無理があり、新幹線を利用するといっても毎日のことだから、とても実現できるものではない。結局、さんざん考えた挙句、家は取り敢えず空家にしておき、その管理は隣の老夫婦にお願いし、週に一回ぐらいは近くに住んでいる叔母さんに留守番をかね、家の様子を見に来て貰うということにし、この際、自分が差し当ってできることは、毎月、月末には必ず帰京し、毎月の諸経費等の支払いを済せた後、トンボ返りで大阪へ戻り、学生さんに早変りをするということであった。そして、春夏冬の長期の休みには東京へ帰り自宅での生活に切り換えるというぎりぎりの線まで絞った大阪行きの構想が何とか纏まった。東京・大阪と二重生活を強いられるような格好になるが、この線に沿って、何とかやれるところまでやって見ようと決心したのである。
何故ロシア語を専攻したかについては定かではない。只、私の叔父さんが終戦後、シベリアで捕虜になり、数年間、強制収容所で抑留生活を送っていた頃、若い時に軍隊で特訓をうけたロシア語が役に立ち、日本人捕虜に対する駆け引きに思い切った談判を何回もやったという。そして、言葉が通じる日本人捕虜として、何かあると、その都度、駆り出され、通訳の代役みたいなことを演じてきたと、日本語とロシア語を交え乍ら、興奮気味で喋りまくる叔父さんの自慢話を今でも憶えている。ひょっとして、こんなことが外大でロシア語を学ぼうとする切っ掛けになったのかも知れない。
*       *       *
大阪に来てからは、東花園(ひがしはなぞの)にある大学の寮に入れて貰い、そこから上六の大学へ通学することになった。毎日、生駒山と睨めっこの学生生活が始まったのである。
私が寮に入ったばかりの頃、大学の授業が終わって近鉄・東花園駅で下車し、寮までの一本道を帰る途中、図らずも奇妙な連中とでくわす機会に恵まれた。
寮に通じるこの道の左右が一面、田圃になっていて、その田圃の土手の上には、これまで見たこともない丼ぐらいもある大蛙が徒党を組んで所狭しと、その鳴き声もゲロゲロではなく、モーモーと大合唱をやっている。
人が近づき、その傍を通り過ぎようとするとその気配に気付き、ぴたりとその合唱をやめ逃げるようにして次から次へと水の中へ飛び込んでゆく、とにかく、図体が大きいからその水しぶきの音も凄まじい。しばらく行き過ぎ、ふと、立ち止まって振り向くと、こっちの様子を伺い乍ら、又、元の場所へ陣取って同じことを始めようとしている。
折角、盛り上っている宴の席を、毎晩通る度に邪魔して申し訳ないと思い、その償いに何か餌でも持っていってやろうと思い付き、生協のおばさんに頼んでおいた残飯を手みやげに持ち帰り、いつものように蛙さまの傍を通り過ぎる時、彼等が集まりそうな場所に見当をつけ、ばら蒔いてやった。
何度か、こんなことを繰り返しているうちに気が付いたことは、気のせいか、彼等の数が増えてきたことである。恐らく、ここで待っていれば、いつも、この時間にここを通るおじさんが俺達のために餌を持ってきてくれるのだということを蛙ながら承知していたのである。しばらく、このような蛙さまへの餌運びを続けていたが、まもなくして、大学も夏休みに入ったので帰京し、暫くぶりに東京の自宅でゆっくり寛ぐことができた。そして新学期の始まる初秋に大阪へ戻り、再び、上六の大学と東花園の寮を往来する学生生活を再開することになった。大学の帰りに蛙さまのことを考え乍ら例の場所を通り過ぎようとしてあたりを見渡すと、もう其処には彼等の姿は見当たらず、一通りの役目を成し終えた水田が涸れ果てて、疲れ切ったように横たわっているだけであった。何とも言えず淋しかった。
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大阪に来ても、別にこれといった仕事についていた訳ではないから、充分すぎるほど時間的余裕はあったので、夕方、大学へ行くまで寮でゆっくりと腰を据えて勉強することができた。大阪へは、かつて、二度ほど立寄ったことはあるが、それも素通り同然であったから、大阪へ来たばかりの頃は、見るもの、聞くもの、すべてが珍しく、田舎がない私にとっては、まるで第二の故郷にでも帰って来たような錯覚に陥り、子供のようにはしゃぎたい気分で一杯であった。だから、日曜日などは大阪へ来たのをこれ幸いと雲でも掴むような期待を抱いて大阪の街をあちこち歩き回った。鶴橋で近鉄・奈良線に乗り換えるため、大阪駅で環状線を待っていると「播州赤穂」という行先を表示した電車がホームへ滑り込んできた。「播州赤穂」といえば、忠臣蔵を題材とした映画やお芝居の世界でしかお目にかかれないと思っていたことが、突然、現実化して目の前に現れた。なんとも割り切れないような変な気分になり、ふと気が付くと、暫く呆然と佇んだまま、大阪駅を後にするその電車をじーっと見送っていた。歩き疲れ、寮へ帰る途中、ちょっと寄り道をして布施駅で降り、行きつけの丸太屋という居酒屋へ飛び込み、疲れ切ってかりかりになった喉を潤すために飲んだ冷たいビールの一杯は身体に一番良く効く最高のお薬であった。つまみにおでんを注文すると、それは、おでんではなく関東煮だという。そして、煮込まれてお客さんの注文待ちをしているドテ焼きの匂い、色のついていない関西独特の味付けのうどん、周囲の人達に目をやると、恐らく、大阪に住んでいる常連のお客さん達であろう、皆、関西弁でわいわいやっている。
何もかも、すべてが大阪の雰囲気一色に包まれた渦中の真っ只中にあって、今、自分がいる所は何処でもない、ここは大阪なんだということを改めて思い知らされた。
大阪を地元とする大学の友人達は、私など、よそ者に比べ、奈良、京都に関しては、さすがに詳しい。
折があると彼等に頼んで奈良や京都の名所を案内して貰った。奈良や京都の数々の有名な寺院や庭園、そして仏像など、この年になって初めて目にするものばかりであった。
何しろ、これといった特別な支度などする必要もなく、寮から下駄履きでぶらっと気軽に出掛けられるのだから。縁あって大阪へ来たからこそ、図らずもこういう機会に恵まれたのであって、東京にいたらおいそれとそう簡単に真似のできる仕業ではない。
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とにかく、五年間といっても長い歳月、いろいろのことがあった。振り返ってみると、私の人生にとって、大阪で過ごした五年間の学生生活は、二度と得ることのできない貴重な体験だったと思う。一年や二年ならいざ知らず、無い智恵絞って何とか組んだこの計画を、果たして五年間も継続してゆけるだろうか、何か予想もしていなかった障害に遭い、事情が一変し、中途半ばにして挫折してしまうのではないかという不安は常に付き纏っていた。然し、日を重ねるうちに大阪での生活にも次第に慣れ、東京、大阪間の二足の鞋も軌道に乗り始め、希望が適って、やっと入学できた大学のお膝元で、天下の大阪外大の学生として誇りをもって学業に専念することができた自分を本当に果報者と思っている。
そして、何といっても最も大きな収穫は、生涯、胸の中に、そーっと大切にしまっておきたい沢山の思い出を創ることができたことである。今、その一つ、ひとつを思い出し乍ら往時を回想すると、次から次へと当時の場面がそっくり、そのまま頭に浮んできて懐かしさで胸が一杯になり、衝動的に、すぐにでも大阪へ飛んで行って、その渇潮の中にもう一度身を投じてみたくなることがある。
今、私の本棚ではナウカで買い求めたべリンスキーやゲルツェンの作品集が、何時、お呼びの声をかけて貰えるのかと欠伸をし乍ら、その出番を待ち望んでいる。
長く勤めた仕事から、やっと解放されて、ゆとりある時間がもてるようになった。
時の流れに伴って与えられた願ってもない機会だから、この機に乗じ、外大時代の学生に立ち返ったつもりになって、忘れないうちに、また、ロシア語の勉強を始めたいと思っている。

プリンストン便り
S38年卒 横井 弘昌

学窓を離れ、社会人となって以来、早いもので足かけ40年がたとうとしています。長いようで短い年月でした。同期生の多くが現役を退き第2の人生に入っておりますが私もその中の一人です。
唯私の場合は、当初からの希望であったとは云えのべ約30年にわたる海外勤務が続き、結局今もその延長で海外に住みついている点が同窓生諸兄姉と少々変っていると申せます。そんなことより今回事務局の大田さんより寄稿を薦められた次第です。

 1963年に卒業すると同時に松下電器の子会社で専門貿易商社の松下電器貿易(株)に入社し、90年に退社する迄27年間、外貨獲得の尖兵として働きました。海外勤務も約20年に及び、その殆どが東南アジア、オセアニア地域でしたが、70年から75年の崩壊に至る迄の南ベトナム・サイゴン(現ホーチミン市)での合弁会社への出向は長年の私の海外勤務の中でもとりわけ印象に残っています。
90年に松下電器を円満退社、松下の幹部社員としては当時まだめずらしいケースでしたが、福武書店(現ベネッセ・コーポレーション)に転職、事業内容・規模・社風等全てが異なる環境下での海外事業の促進をすることになりました。
ここでの一大プロジェクトとして取組んだのが歴史も古く世界的にネームバリューの高い「ベルリッツ/Berlitz」の買収案件でした。91年に日本ベルリッツの一部買収を完了、同時に私がベルリッツ・インターナショナル社(世界本社)の役員も兼務することとなり東京/ニューヨーク間の往復が急増、年に13回にも及ぶことがありました。紆余曲折がありましたが、93年3月にベルリッツインターナショナル社の発行株数の過半数買収を終え、同時に同社のCEO(最高経営責任者)として世界本社の在るここプリンストンに赴任し、茲来当地で生活しております。
さて、海外勤務が長いとは云えロシア語と全く縁の無い土地柄ばかりで、大学で習った多少のロシア語を使う機会も全く無く、同期生のロシア語力とは比較にもならぬレベルでいつも冷汗をかいています。従いロシアとの関わりをお話しようにも十分なネタも持合せておりませんので今回は現在住んでいるプリンストンについて少しお話します。
先づ、プリンストンという名称は大学の名前で皆さんにもなじみが深いと思います。勿論それはこの大学が、単に250年余りの歴史を持つその古さだけではなく、又数万人の学生数を誇る大規模校でもなく、むしろ学生数は大学院生も含め7,000人を下廻る比較的小規模な私立大学であるにも関わらず、アカデミックな質の高さと卒業生からの寄付金の大きさによる学生一人あたりにかける学術予算が他大学に比し突出した、恵まれた学習環境の素晴らしさによると云えましょう。ちなみにこの大学の設立は1746年にさかのぼりアメリカ合衆国ではボストンのハーバード大学に次ぐ古さです。
最近映画化された「ビューティフル・マインド」はこの大学在籍のナッシュ教授の自伝に基づいていますが、これを観られた人はこの大学が持つ雰囲気の一端を感じて戴けるものと存じます。
プリンストンという名前はアメリカ人にとり特別な響きを持っています。
それは東部エリート大学としてのイメージや、緑の多い典型的な東海岸の高級住宅地という印象のみではなく、アメリカ独立戦争でワシントン将軍率いる独立派がはじめてイギリス軍をやぶった歴史的な土地柄だからです。アメリカ独立史の中の重要な一頁が1777年1月3日のプリンストンの戦斗で、この戦勝をはさむ10日間にわたる一連の斗いがアメリカ独立にしっかり結びついたことはアメリカ人の「自主独立」精神の基本になっています。
 こう述べますとプリンストンは単に古びた歴史と大学の町だけの印象になるかもしれません。勿論、独立史に重要な役割を果たし、たった数ヶ月の暫定期間とは云え初期アメリカ合衆国の首都であった歴史と学芸都市という事実は変えようもありません。
 しかし地理的にはニューヨークとフィラデルフィアのほぼ中間点に在り、古くはその中継点としての宿場機能と各種商品の中継ぎ機能としても重要でした。
 現在は当地には数多くの世界第一級の水準を誇る各種研究所、例えば世界初のシンクタンクで、アインシュタイン、オッペンハイマー博士が指導者であったことで有名なプリンストン高等研究所(こちらでは湯川博士も研究された由)、AT&Tベル研究所、デビッド・サーノフ・リサーチセンター、FMCケミカルリサーチ、ジェームス・フォレスタル・プラズマ研究所等々があり積極的な研究を続けています。
 又企業分野でもメリルリンチ、ダウジョーンズ、ブリストルマイヤーズ、ETS、ベルリッツ等の世界的に知名度の高い優良企業の本社が置かれています。
  
さてロシアとの関わりについて少し触れます。こゝ数年アメリカへのロシアからの移民が急増、NYのブルックリン地区はロシア租界が出来ているとさえ云われています。
 その流れはこのプリンストンでも見られ、最近ロシア人労働者が急増しています。言葉の問題で本国での資格を生かせずその多くは単純労働者として働く人が多いのですが、私のかかりつけの歯科医にもノボシビルスクから移住した「オリガ」がアシスタントとして働いており、このところ時候の挨拶や単純な会話はロシア語で交わすことが多くなりました。最後に、9月の新学期よりプリンストン大学のAudit Course(聴講生)で勉強することが決まりました。将しく「年寄りの冷水」のたぐいですが、ボケ防止の一助になれば・・・との思いです。受講科目のひとつが「The Soviet Empire」でスティーブ・コティン教授から指導を受けます。毎月・水曜の各一時限で、夏休み中に読む参考書が三冊程すでに与えられ少々プレッシャーになりつつあります。さてどれ程の成果に結びつくのでしょうか?
尚プリンストンにご興味のある方は事務局大田さん経由でお気軽にお問合せください。私がお答え出来ることは喜んでご返事いたします。
皆様のご健勝とご多幸をお祈りしつつ・・・

歌と演劇とロシア
S46年卒 山内 重美

●成り行きで入ってしまった阪外大

大阪外国語大学は、望んで入った大学ではなかった。
父が国鉄技師だったので、就学前には地方を転々とし、小学校からは京都市山科で育った。玩具の卓上ピアノで童謡を叩いたり、少年少女世界文学全集に読み耽って妖精の世界に感情移入するような子供だった私は、中学生の頃にはもう、北海道大学に進もう、と心に決めていた。男子寮であることも知らず恵廸寮歌に惹かれ、卒業後も森と雪の大地で図書館の司書になろう、と単純に夢見ていた。しかし、父は常々「女の子に大学教育は無用」「つましい家計なのに下宿などとんでもない」と言っていたので、その父を説得するには、北大でしか教えていないものを志していると主張する外ない、と浅はかに考え出した口実が、「ロシア文学をやりたい! 授業料が安い国公立大学の中でロシア文学専攻を設けているのは、北大だけ!」だったのだ。
結局、祖父の病もあり、親戚や高校教師たちも「親不孝だ」と猛反対。「ロシア語科がある大阪外大で辛抱しろ。進学できるだけでも贅沢。浪人は許さん」と最後通牒を突きつけられ、渋々受験したら幸い合格してしまったというのが実のところで、本当はロシア文学などどうでもよかった。テレビの影絵番組でマルシャーク作「森は生きている」に心躍らせた思い出はあったが、もし北大にしかザンビア文学科がなかったら、やはりそれを口実にしていただろう。
団塊世代なので、入試倍率は十三倍。一学年五十人が二組に分かれ、男女の比率は二対一。イヤイヤ入学した外大の授業に身が入るはずもなく、成績も無惨なものだった。広大な北大キャンパスとは対照的な、暗くて小さい上本町八丁目の校舎。歓楽街に囲まれた劣悪な環境も気が重く、二年生の夏にソ連軍のチェコ侵攻が起こり、ソ連という国にも幻滅した。
しかも、当時は世界的に大学紛争の嵐が吹き荒れていた。一・二年生の夏には海や山で合宿し、語劇祭も協力し合って仲のよかった級友たちが、二年生の秋には左翼主流派、新左翼、運動会系ときれいに三つに分かれ、ヘルメットを被ったり角材を挟んで睨み合うという状況になり、ついには全共闘の学生たちが学内に立てこもって大学を封鎖し、授業が無くなってしまった。四年制の大学へ入ったはずなのに、実感としては一年半位しか授業を受けた記憶がない。
私自身は、ベ平連の街頭デモによく参加した。だが、勇ましい言葉ばかりが浮遊する学内の政治活動には違和感を覚え、どのグループからも「山内は階級意識が足りない」と言われながら、ウロウロするばかりだったような気がする。荒廃した雰囲気の中で、ストーカーまがいの男子学生に悩まされても、散り散りになった友人たちに相談し助けを求めることができないのがつらかった。やがて警官導入などの騒ぎを経て封鎖が解除された頃には卒業時期が迫っていたが、級友たちの多くは教室に戻らず、郵送でもよいとなった卒論を一体何人が提出したのかさえ、知らなかった。十年以上経ってから同窓会名簿を見たら、卒業していた同期生は五十人中三十八人で、翌年と翌々年卒が数人。残りの名前はなく、住所不明も数人。住所が書いてあっても、連絡をとろうという気は起こらなかった。皆がそうだったろうと思う。思い出したくない後味の悪さが尾を引いていた。
最近、咲耶会や北窓会の集いに出るようになり、先輩や後輩が楽しそうに在学中の思い出話をなさる様子を見るたび、同じ大学でこうも違うものかと驚き、羨ましくなる。

●ライフワークとの出会い

暗い思い出しかないと思っていた母校だが、振り返ってみると、その後の人生を左右する価値観の多くが外大時代に植え付けられていたことに思い至る。
特に強い影響を受けたのは、担任の法橋和彦先生が授業中におっしゃった次の言葉だ。
「人間社会は多数決によって、ベターな解決を探るしかないが、どんなに最善の道を選んだつもりでも、必ず網の目からこぼれ落ちるものがある。そのこぼれたものを丁寧に見つめ、大切にするまなざしが文学や芸術」
「引用による水増しは無用。剽窃は論外。自分の言葉と考えだけを書くなら、どんなに短いレポートでもいい」
この二つの言葉は心に深く根を下ろし、音楽や演劇への情熱に姿を変え、また「自分の目で確かめ、感じたことだけを信じていこう」という基本姿勢になった。
ソ連社会の矛盾に早めに直面したことも、組織や運動体が陥りやすい欺瞞を学園紛争の中で目にしたことも、無駄ではなかったと思う。また、封鎖で授業が無くなって時間が浮かなければ、学外の劇団ム関西芸術座の養成所へ通おうなどという気は起こさなかっただろうし、その延長で上京して女優になることもなかっただろう。
同じくヒマを持て余して、地域図書館にもよく行き、ふと手にした世界演劇紹介の本の中の演出家メイエルホリドに関する記述が不自然に短い、と感じた直感的な疑問が、メイエルホリド研究に進むきっかけになった。実は、封鎖以前に学内の図書室でチェーホフの原語版戯曲集を眺めていた時(読むほどの語学力はまだなかった)、巻末の「かもめ」の舞台写真に、他の出演者名は明記してあるのに、トレープレフ役のハンサムな青年の名だけ印刷されていないので怪訝に思ったことがある。それが若き日のメイエルホリドらしいと気づき、彼が後にスターリンに粛清されたことを知った。政府から否定されると、たとえ写真に写っていても、あたかも存在しなかった人のように名前を抹消するなどという茶番が通用する国があるということに心底驚いた。日本語で書かれた彼の演出家としての評価の低さにも「そんなはずはない」と感じた。ならば自分で調べるしかないのか? 名誉回復後、初めてソ連で関連図書が相次いで出版されたのが、ちょうどこの頃だったのも幸いだった。それまではロシア語など本気で勉強する気がなかったのに、分厚い四冊の本を、辞書と首っ引きで訳し、せっせとノートを作っていけたのも、授業が無く、たっぷり時間があったからこそだった。メイエルホリドだけでなく、マヤコフスキイ、エイゼンシュテイン、ショスタコーヴィチ、パステルナークなど、彼と共に仕事をし、政治革命を芸術革新と重ね合わせて未来を夢見た若者たちが、やがて革命の現実に裏切られ、粛清、亡命、自殺、あるいは失意の生涯を辿った姿が、幕末の京を駆け抜けた日本の青春群像ともダブって感じられた。
そして、歌。
入学当初、勉強する意欲は湧かなかったが、昼休みのわずかな時間に、先輩たちがガリ版刷りの楽譜を用意してくれて原語で歌うひとときがあり、「エルベ河」や「小さなグミの木」を覚えた。とても楽しかった。
また、亡命ロシア人教師のイーヤ・レーベジェワ先生が、授業中に、「ハルビンでママがよく歌ってくれた歌です」と、黒板いっぱいに「青いプラトーク」の楽譜をチョークで書き、か細い声で一生懸命教えてくださったことがある。その姿の切なさが忘れられず、それから二十年後に、私は歌手として、この歌をタイトル曲にCDデビューを果たすことになる。

●上京、芸能界

あの時代に遭遇していなければ、上京して劇団に入ろうなどと思わず、平凡な主婦になっていたことだろう。大学紛争の喧騒が空しく、もっと確かな、人間的で手応えのある仕事をしたいと思った。ストーカーから逃れねばならぬ切羽詰った動機もあった。演劇が文学の実践のように感じられ、「劇団三十人会」の試験を受けた。両親からの仕送りはなかったから、学割を利用し奨学金とアルバイトで生活を立てるため、同時に早稲田大学露文科の大学院を受けた。入学できたのは、紛争の余波で大学卒業生が少なく、競争率が低かったからに違いない。
午前中は劇団養成所の授業、午後は大学院のゼミ、夜は民芸料理店のアルバイトという生活が始まった。まもなく演劇雑誌『新劇』にメイエルホリド論を二年間連載することになり、書き溜めたノートが生きたが、それ以上に無我夢中で勉強せねば間に合わなかった。あんなに勉強した時期は後にも先にもない。だが、母の発病を機に一年半で中断。一段落した時、連載を本にまとめようという出版社の勧めを、「もう少し書き足してから」と待ってもらったのは、間違いだったようだ。修士課程を終えた後、演劇活動やアルバイトがどんどん忙しくなり、「演劇研究のためにも現場を知らなければ」と続けた女優業に足を取られ、ミイラ取りがミイラになっていった。アーチストの生理には、「情動」の部分が多いので、長く続けていると、緻密な論理構築ができなくなっていくような気がする。
劇団員になれた一年半後に「劇団三十人会」が解散し、放り出された。他劇団の研究生だった風間杜夫、大竹まことたちが創設した「表現劇場」に加わったものの、ほどなく消滅。小劇場出演を断続的に続けたが、アルバイトのつもりでNHK教育TV「ロシア語講座」の扉を叩いたことが、その後の道を変えた。いわく、「アナウンサーよりはロシア語の発音がマシです。大学の先生よりは愛嬌があります。司会に使ってください」と履歴書を持って申し込みに行ったのだ。大学で一年半しか授業を受けず、大学院では論文主体で、発音も会話力も駄目なままだったのだからムチャな話である。芝居の公演の度に休むのでどのアルバイトも長続きせず、その度に求人広告で新しいバイト先を探さねばならぬ生活に疲れ始めていた。生活費の足しになればという軽い気持からだったのだが、ちょうど、ロシア人講師とアシスタントだけで、つまり大学講師抜きのスタイルで番組を作れないかと模索していた当時のスタッフたちの希望と奇しくも合致し、一九七七年秋から「ロシア語講座のお姉さん」になった。
これがきっかけとなってNHKのドラマにチョイ役で出始め、到底入れそうもないはずの名門プロダクションに採用された。黒柳徹子、佐久間良子らスターばかり十人を抱える老舗プロダクションだった。芸能には無縁の平凡な家庭で育ち、後ろ盾も無い地味な私がなぜ入れたのか不思議で、数年後に社長の吉田名保美さんに尋ねたら、「善い人そうだから一緒に仕事できると思ったの」というアッケない答だった。右も左も分らぬ芸能界は戸惑うことばかりだったが、舞台やTVドラマと並行して、語学講座の後も音楽番組や報道番組の司会・レポーター等、硬軟両面のレギュラー番組を堅実に続けられたのは、いわば金看板に守られていたお蔭だったろう。「ロシア語講座」では、実際には台本通り喋るだけだったのだが、視聴者からの質問を読んでその場でロシア人講師に尋ねたり、発音や文法を説明する役回りでもあったので、見ている人には余程ロシア語ができるように映ったらしい。そのせいで通訳の仕事も入り始め、実力とのギャップに脂汗を流しながら努力し凌いでいるうちに、だんだん上達していったというのが真相だ。
竹を割ったように真直ぐな気性の吉田社長は、八七年夏に私が大阪中座でミュージカル「にんじん」に出演していた時、旅先の事故で急逝された。こうしてプロダクションが解散した時、私は、「芸能・マスコミ界での活動はそろそろ終りにしなければ」と感じた。俳優も放送人も、それこそ自分の天職を極めようと必死で鎬を削っている。だが私にはその必死さも華やかさも欠けていた。ロシアやメイエルホリドに半分軸足を置いたままだったし、折しも進行中のペレストロイカの行方が気がかりで、昼の帯ドラマのスタジオで安穏としている気分にはなれなくなっていた。まもなく、ドラマよりドキュメンタリーを重視する中村敦夫さん(東京外語大出身)に誘われて中村企画に参加。そこも中村氏の参院選出馬によって解散することになるのだが、計十数年間の芸能界での経験が、私の人生において回り道だったのか、成長し現場を知るために有意義だったのか、まだ自分ではわからない。
思い出深い仕事としては、ミュージカルでは「屋根の上のヴァイオリン弾き」「三文オペラ」「「スイートチャリティ」「回転木馬」「にんじん」「音楽劇・異邦人」。その他の舞台では「化粧」「女のたたかい」「花の吉原つき馬屋」。新劇系では「夢、ハムレットの」「桜の園」など。
TVドラマでは「天城越え」「ザ商社」「壬生の恋歌」「くたばれ、母ちゃん」「妻たちの課外授業」「裸の大将」「失われた過去」「ああ家族」「女性レポーター殺人事件」など。
TV司会では「ロシア語講座」「テレビ・コンサート」「明日の福祉」「世界に飛ぶ」「プレステージ」「ティー・フォー・ユー」。レポーターでは「世界ふしぎ発見」「ニュースステーション」「大ロシア・黄金の秋を行く」「芸術劇場」など。
ラジオ番組では、各三年以上続いたNHK国際放送の露語DJ「音楽の小箱」やFM東京の朝番組など。
イベントでは、「つくば万博」の外国催事五十ヶ国分や、「ならシルクロード博」、「国際花と緑の博覧会」の開・閉会式司会、モスクワにおける「日本文化週間」の総合司会といった大舞台も経験した。

●ロシアの歌

歌の仕事を始めたのは、芝居と大学院を並行させていた二十代の半ばで、これも、公演のたびにクビにならずに済むアルバイトはないか、と探した不純な動機からだった。先輩俳優の中には、芝居の公演がない時だけローテーションを組んでもらえる弾き語りのアルバイトをする人たちがいて、歌の店を紹介してもらった。最初の頃は声は震える、マイクを持つ手も震えるで、まるで相手にされなかった。だがジャズや演歌やシャンソンでなくロシアの歌には競争相手がいなかったというだけの理由で時折歌わせてもらえるようになり、だんだんレパートリーが増えていった。
「ロシア語講座」の中で歌うためにNHKの軽音楽オーディションを受けて合格したのは、司会を始めて二年目。審査委員長の藤山一郎さんが、「トロイカ」の私の訳詞を褒めてくださり、「歌唱は未完成だが、貴重な仕事だから頑張りなさい」と励ましてくださった言葉が昨日のことのように甦る。ロシアの歌を、シャンソン、カンツォーネのように「大人の歌」として日本の人々に知ってもらいたい、という願望が芽生えたのは、藤山一郎さんのこの時の笑顔と言葉からなのだ。本当に、何がきっかけになるかわからない。その後も先輩たちに「下手だ」とイビられながらコツコツと歌い続け、訳詞を増やしていった。マスコミの仕事が順調になりアルバイトの必要がなくなっても、もう歌は自分の一部になっていた。いわゆる<ロシア民謡>と一括りにされてきた歌たちの実は様々な来歴をライヴやコンサートで語り、ポピュラーにする努力はしていても、同業者や良きライバルがいない現状は誠に心許ない。歌唱力を伴った後進たちが大勢生まれてきてくれないものだろうか。私の役目は、そうした若い世代への橋渡しであるらしい。
一九八八年に十七曲を収めたCD「青いプラトーク」を発売。二〇〇二年に二十曲の楽譜・歌詞・来歴を含んだ「黒い瞳から百万本のバラまでムロシア愛唱歌集」が東洋書店ユーラシア・ブックレット・31として発売された。「うたごえ運動」の頃に日本でポピュラーになった歌ばかりでなく、吟遊詩人オクジャワやヴィソツキイの歌を始め、近年のヒットソングをも日本で普通に歌われるようにするための土台作りを、微力ながら続けていきたい。

●ロシアとの交流と「ヤーマチカ通信」

大学院三年目の一九七三年に初めてモスクワでの夏期語学セミナーに参加して以来、訪ソ・訪ロ回数は数十回になる。七七年に人形劇団「飛行船」の訪ソ公演「ピノキオ」の「お話のお姉さん」役でシベリアからバルト三国まで一ヵ月半横断し、公式のソ連像とは余りに違う複雑な現実を知ったことが、本気でロシアと向き合う転機だった。
マスコミで働いていた東西冷戦期には、TVの取材で欧米各地へ行くことはあっても、スポンサーが嫌うのでソ連絡みの仕事はなかったから、年末・年始の休暇を利用し観劇ツアー等を続けた。ペレストロイカ以降はホームステイが可能になり、各地での滞在を繰り返し、音楽フェスティバルにも多く参加した。それらの期間、とても役立ったのが「俳優」「歌手」の立場だ。ジャーナリストでも駐在員でもなく「一介の芸人」だったからこそ、ソ連の監視体制を潜り抜けて一般の生活に触れられたし、アーティストたちとの本音のつき合いを通して、ソ連社会の裏側を見続けることができたのだ。外国人立ち入り禁止の軍港にも、音楽フェスティバルのゲストとしてなら出入りが可能で、軍艦の中を歩き、軍人・兵士たちと雑談することさえできた。亡くなる前のヴィソツキイの舞台に触れ、オクジャワの自宅も訪ねた。KGBの秘密資料が続々明らかになった一九八九―九〇年に、メイエルホリドの尋問調書や裁判記録を集め、存命の関係者を探して話を聞いた。いつまた時代が逆戻りして、真相が葬り去られるかも知れなかったからだ。彼の孫娘マリヤさんとの親交はこの時から始まる。また、一九八八年のモスクワ芸術座と二〇〇一年のポクロフカ劇場来日公演では、同時イヤホン通訳を務めた。
新聞・TV報道からこぼれ落ちるそのような見聞を、「ヤーマチカ通信」と名付けた手書き個人新聞に一九八九年から書き始め、これまでに五十五号になった。流行り廃りに左右されないロシア定点観測の私なりの発信基地だ。  
ソ連崩壊の前後には、ソ連ウォッチャーとしての報道や出版の依頼が私のもとへも殺到した。ところが両親が揃って病に倒れ、三年介護して相次ぎ見取るまでに、働きどころであったはずの時期は頭上を素通りしてしまい、貯金も底をつき、私は虚脱状態に陥った。そして、早大の後輩に誘われるままモスクワの国営ラジオ局「ロシアの声」に赴任した。日本語放送原稿の翻訳とアナウンスが仕事だ。
円換算すれば二万円ほどの公務員給料で一般ロシア人と同じ生活をした。経済的に波のある自由業を続けてきた日本でのストレスと金属疲労が次第に解けていき、豊かな自然、率直な人間関係、廉価な芸術に囲まれた生活の中で、身も心も癒されていくようだった。月給の範囲内でも毎日のように芝居やコンサートに通え、表現芸術の真実に目を開かれた。女優として未熟だった自分の欠点がわかると共に、演劇そのものには益々魅せられ、スタッフ等いかなる形でも関わっていきたいと決意を新たにした。結局足かけ三年に及んだモスクワ生活の間に、幼稚園と小学校のロシア語教科書を、国語教師だったマリヤさんについて学び直した。大人同士として付き合う友人たちが、どのような言語・思考形成をしてきたのかを是非知っておきたかったのだ。お蔭で、永年の語学コンプレックスも少し解消できた。

●これから

「一芸に秀でる」「この道一筋」という言葉に憧れながら、現実の私の経歴は、幾つものタコ足配線のようだ。確固たる信念もないまま、多くの偶然や、ストーカー、セクハラ、親の病気等、予期せぬアクシデントに遭う度に曲折を重ねた結果だし、不安定な収入ゆえに、とにかく与えられ、出来る仕事なら種類を選んでいられなかった事情もあった。若い日、演劇の現場では「インテリに役者は無理」と陰口をきかれ、研究やジャーナリズムの分野では「役者風情が…」という扱いを受けることもあった。最終選考まで残ったNHKメイン報道番組の司会を、「ロシア語専攻では、世論の反発が怖い」という上層部の判断で失ったり、スポーツ新聞での紹介記事が大韓航空機撃墜事件の影響で掲載延期されたこともあった。二足のワラジに自分でも悩み、街頭の占い師に観てもらったことがある。その時には、「アーティストもロシア語関連も、無理して捨てずに両方続けなさい。その内、自然に絞られていく時がきます」と言われたのだが…。
九九年に帰国後は、日露演劇交流のコーディネイトや稽古通訳、また、大学講師として「異文化交流の現場」(早大)、「ロシア・コミュニケーション」(天理大)を講じる仕事が加わった。語学と芸能の両面での経験の蓄積は無駄ではなかったのかもしれない、と、ようやく感じるようになった。
偶然入った外大でのロシア語との出会いが、歌へも演劇へも私をいざなってくれた。他の言語を扱うよりは、より多くの社会的な壁や矛盾に気づかせ、折々の挫折によって鍛えてくれたような気がする。限られた人生の中で、喜びも悲しみも味わいが深く多いほど良いのだとすれば、ロシア語との出会いに心から感謝せねばなるまい。
中途半端に肩書きばかり増えてしまった足跡に赤面したくなるが、それらを束ね、撚り合わせ、自分ならではの仕事にまとめていくことがこれからの宿題だと思っている。

大阪外国語大学ロシア語科卒業生
関東地域在住者の集い・北窓会
会報「北窓」1〜9号 目次一覧

◎創刊号 1989.4 B4版 6ページ
会長挨拶  創刊号発刊に当り会長としての所見       
〜マルクス・エンゲルス理論をこえる努力〜
古田 道麗(S13卆)
粛清の嵐に消えた人                    
ネフスキー氏の思い出
堀場安五郎(S5卆)
半世紀ぶりに母校の跡を訪ねて               
原  浩一(S10卆)
ビソコと東京
   ユーゴスラビアとのふれあい              
大田 憲司(S38卆)

◎2号  1990.11 B4版 6ページ
会長挨拶  私の研究「人間史観」に立脚しての       
                それぞれの生き方
古田 道麗(S13卆)
ソ連極東の町・ウラジオストックとの交流          
鶴賀 未義(S8卆)
ペキン〜モスクワ・シベリア鉄道の旅            
大田 憲司(S38卆)

◎3号  1992.3 B5版 8ページ
独断と偏見 〜ご挨拶にかえて〜                   
古田 道麗(S13卆)
もっと冷静にロシア・ソ連の事態を観察しよう        
泰  正流(S11卆)
北窓会の発展を願って                   
山口慶四郎(S19卆)
在日外国人(ニューカマー)の現状             
橘高 絹子(S32卆)
同窓との出会い 〜戦時下の大阪外語〜           
野田 重直(S19卆)

◎4号  1993.3 B5版 14ページ
このごろのこと 〜ご挨拶にかえて〜                
古田 道麗(S13卆)
場ちがいな話                       
  〜ロシア人に英語を教える〜            
喜田 説治(S11卆)
僥倖                           
〜外国要人との交流〜              
塚崎 義弘(S35卆)
ロシア事情                        
井上 雅旦(S38卆)
総会でお会いするのを楽しみにしています          
  〜3月21日の懇親会を控えて〜
山口慶四郎(S19卆)
会員短信・近況報告

◎5号  1994.12  B5版 22ページ
悲しいお知らせ                      
  〜泰 正流さんを悼む〜
古田 道麗(S13卆)

外語・戦争,そして社会福祉                
鷲谷 善教(S10卆)
アフリカのことなど
  〜ウガンダに縫製工場〜                 
柏田 雄一(S29卆)
ニュース通訳雑感                     
宮下 知子(S52卆)
会員短信・近況報告

◎6号  1996.4 B5版 14ページ
思索すること                       
古田 道麗(S13卆)
昭和20年代後半の外大生活
  〜高槻校舎から上八校舎へ〜               
平野 六郎(S29卆)
待ってました定年                     
  〜JAL機長のラストフライト〜
宇野  存(S33卆)



◎7号  1997.11 B5版 12ページ
堀場安五郎顧問のご逝去                  
古田 道麗(S13卆)
堀場先輩ご逝去を悲しむ                  
野田 重直(S19卆)
ロシアについて思うこと                  
大塚 洋二(S31卆)
シンガポールに暮らして                  
橋本 周子(S61卆)

◎8号  1999.4 B5版 14ページ
ご挨拶  「人間史観」に立脚する立場より         
「資本主義経済」の欠陥の一端
古田 道麗(S13卆)
気がかりな「今どきの若い者」               
木村 明生(S22卆)
ロシア雑感                        
安達 菅治(S32卆)
戦時下の大阪外語                     
  〜ロマーエフさんのプーシキン講             
野田 重直(S19卆)
◎9号  2001.11  B5版 16ページ
ご挨拶                          
  〜野田重直さんのご逝去を悼んで〜
古田 道麗(S13卆)
畏敬の友・野田重直君を偲ぶ                
山口慶四郎(S19卆)
戦時下の大阪外語の思い出                 
  〜短い学窓生活・そして学徒出陣
野田 重直(S19卆)
オーケストラ・ダスビダーニヤ               
樽井 一仁(S50卆)
高田屋嘉兵衛とリコルド                  
鈴木 昭彦(S60卆)
こんな先輩がいた                     
  〜辻 平一さん(サンデー毎日の元編集長) 
山口慶四郎(S19卆)

懇親会開催について(ご案内)

平成14年(2002年)度の北窓会懇親会を左記の通り横浜で開催致します。万障お繰合わせの上ご参加下さい。

 日 時  平成14年(2002年)11月30日(土)
        午後2時〜6時
 場所(案内図は省略)
午後2時 桜木町駅、唯一ヶ所の改札口を出てすぐの書店(ブック・ガーデン)前
      約2時間 市内名所散策・喫茶
  午後四時 桜木町駅前・東天紅
(ワシントン・ホテル24F・TEL045-681-1015)
        中華料理を囲んで懇親会(〜午後6時頃)
 会 費  7千円

※ 今回は前半横浜見物、後半懇親会を予定しております。前半のみ、あるいは後半のみの参加でも結構です。
  横浜在住の会員有志からの歓迎メッセージを添えておきます。
  ※ 当日は関西から山口慶四郎先生がご出席の予定です。

出 欠  会場準備の都合上、ご出席の方は左記あて
       11月24日(日)までにご連絡願います。
         (048‐769‐4733
         FAX148‐769‐9019
     〒349‐0104 埼玉県蓮田市緑町1‐4‐8
                  大 田 憲 司